- 2009-01-01 (木) 0:01
- MLB Players

#* ジョシュ・ギブソン(Josh GIBSON) | C

- メジャーリーグでのプレー経験なし
- 1911年12月21日生 右投右打 185センチ 95キロ
- ジョージア州出身
選手の紹介文
通算HR数が900本を越えているとまで言われる強打のジョシュ・ギブソン。メジャーリーグでプレー出来る力がありながら、時代がそれを許されなかった悲運の選手である。活躍した舞台はニグロリーグ。肌が黒かった事実が活躍の幅を狭めた。ニグロリーグを代表する投手がサチェル・ペイジなら、打者はギブソンである。
ジョージア州アトランタ郊外のブエナビスタに生まれたギブソン。1911年に生まれたとされており、3人兄弟の長男だったという。父親は農園に勤める小作人だったが、後に親戚をたどり、ピッツバーグの製鉄所に仕事を見つけた。後に家族も呼び寄せ、ギブソン自身もピッツバーグへ移ることになったのである。
野球を始めとして多くのスポーツに才能を見せたギブソン。特に水泳には抜群の才能を発揮し、幾つかのメダルも獲得したという。野球においても球を遠くに飛ばす力は桁違いであった。多くのスポーツを体感することで筋肉隆々でありながらもバランスの取れた体型が形成されたのだといえる。
1929年にはピッツバーグのセミプロチームでプレーしており、ポジションは捕手だった。1930年7月のある日、ピッツバーグの隣町に本拠を構えていたホームステッド・グレイズが、前年度のチャンピオンであるカンザスシティ・モナークスを迎えて戦った試合をギブソンが観戦していたという。グレイズの先発は剛球投手で知られるスモーキー・ジョー・ウイリアムスだった。
その試合で照明器具が故障し、さらに捕手も怪我をして、捕手がいない状態となったグレイズ。ここで観客席にいたギブソンに声をかけ、代役を依頼。突然のことではあったがギブソンが捕手を務めることで試合は進んだ。延長戦にまでもつれ込む熱戦となり、グレイズが勝利を抑えた。ギブソン自身、打撃で結果は残せなかった、守備面ではまずまずの結果を残し、そのままグレイズと契約することとなったのである。
打撃面ではとてつもない飛距離を見せる打撃を見せ始め、グレイズの主砲となるのに時間はかからなかった。捕手としての守備もキャッチングを始めとして基礎から磨き直した。キャッチングが安定することで持ち前の強肩がより生きることとなり、盗塁阻止率も格段に上がったのである。
1931年は200試合近くプレーし、75本のHRを放ったと言われている。さらにHRの飛距離が半端なく、どこまで飛んだのかが大きな話題になるなど「黒いベーブ・ルース」と呼ばれることもあった(ルースを「白いギブソン」という声もあったが、これでも実力的にはギブソンの方が上ではないかと言われていた)。
強豪グレイズも、ニグロリーグの覇権を争い、同じく強豪のニューヨーク・リンカン・ジャイアンツと「ワールドシリーズ」を戦うことになった。先に6勝した方が勝ちというシリーズで、ピッツバーグはフォーブズフィールド(当時のパイレーツの本拠地)、ニューヨークはヤンキースタジアムを借りて試合を行い、激戦の上、グレイズが勝利を収めたのだが、このシリーズでギブソンはヤンキースタジアムのレフトスタンドの屋根を越えたと言われる特大のHRを放った。このHRはヤンキースタジアム史上最高の飛距離を記録したとして後に伝説になったのである。
これによりギブソンの名声は一段と高まり、1932年からはピッツバーグ・クロフォーズに引き抜かれる形で移籍し、ページとバッテリーを組むことになった。それまで栄華を誇っていたグレイズも財政危機により、1933年頃にはグレイズの主力選手の大半がクロフォーズに移ったという。
1933年には137試合の出場で打率.467、239安打、55HRを記録したギブソン。翌1934年にはシーズン69本ものHRを放ったという。この年、クロフォーズはメジャーリーグで世界一となったカージナルスと対戦した。あくまでもオフシーズンの余興の一つではあったが、9試合戦い、クロフォーズが7勝2敗と圧倒した。その中でもギブソンの打棒は際立っていたが、ギブソンがメジャーリーグの舞台に立つことは時代が許さなかったのである。
ニグロリーグ自体は経営が不安定で、球団の解散・結成、リーグの解体・結成などを繰り返した。ギブソンも1937年には古巣グレイズと契約するが、ドミニカ共和国、プエルトリコ、メキシコなどのチームでもプレーした。これは渡り鳥のように幾多の球団でプレーし続けるペイジの影響が大きい。そして、至る所でギブソンの打棒を発揮し、周囲を驚かせたのである。
元々、物静かな人間だったギブソンも1938年頃になると酒に身を委ねることが多くなった。元々は酒を飲むタイプではなかったが、当時として酒を飲むことが男らしいというイメージがあり、それに従ったまでである。また、ギブソンほどの実力があれば所有する球団は手元に置いておきたいと思い、酒代を出す代わりにギブソンの身を預かることを求めたという。周囲の思惑がギブソンの後々の運命を狂わせることとなった。
1939年、ギブソンはまだ27歳と若く打撃に衰えは全く見せておらず、相変わらずの特大HRを放っている。この年の打率に関しても.440ほどを記録していたという。酒の量が増える中でも常に4割近い打率を残し続けていた。膝の故障に苦しみ始めた1942年、ギブソンの会話が支離滅裂になるなど、周囲の人間もおかしいと気づき始めた。
そして1943年1月、原因不明の頭痛に襲われ、意識不明で倒れたのである。丸1日昏睡状態となり入院。診断の結果は脳腫瘍だった。治療を勧める周囲に対し、ギブソンはそれを拒否。手術を受けると植物人間になると考えていた節があるという。そして、戦線復帰。ギブソンの打棒が健在だった点が驚きである。
1944年にはリーグ戦39試合で打率.338を記録し、6HR放ち本塁打王。1945年も打率.393、8HRで首位打者と本塁打王の二冠王となれば、翌1946年も打率.331をマークし、数字だけを見れば病気のことは感じさせない。折しも時代は第二次世界大戦が終わり、黒人選手のためにメジャーリーグが門戸を開こうとしていた。
幾人かの候補選手がメジャーリーグの球団と契約し、時代の扉を開こうとしていた直前の1947年1月、ギブソンは脳卒中で倒れた。あっという間に息を引き取ったのである。ギブソンがこの世を去った約3ヶ月後、ジャッキー・ロビンソンがドジャースの一員としてメジャーリーグの舞台に立ち、新しい時代が始まった。
メジャーリーグ初の黒人選手の名誉がギブソンではなく、ロビンソンに与えられたことにショックを受けたことが急逝につながったのではなく、積み重ねた不摂生が不幸を呼んだといえる。ギブソン自身、メジャーリーグの舞台でプレーできないことに不平を言ったことはないが、泥酔すると「誰が最も打球を遠くに飛ばしたと思うのだ」と周囲に問いかけることもあったという。
全盛時には常に打率は4割を超えていたという。通算HR数も962本とも言われる。そんなギブソンだが、プレースタイルは面白みに欠けたという。これは難しいことをいとも簡単にこなしてしまう為に、その完璧さがうまく伝わらなかったのだと推測できる。メジャーリーグでのプレー経験はないが1972年、ギブソンは野球殿堂入りを果たした。前年に殿堂入りしたペイジに続く、ニグロリーグ出身者としては2人目の殿堂入りとなった。
【written by Kenji@webmaster】
獲得タイトル一覧
受賞アワード一覧
受賞タイトル一覧
- 殿堂入り:1972年
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