- 2008-06-05 (木) 0:09
- MLB Players

#7 ミッキー・マントル | OF

- 1949年・ヤンキースと契約
- 1931年10月20日生 右投両打 180センチ 83キロ
- オクラホマ州出身
選手の紹介文
ヤンキースの球史を飾るスラッガーとして一時代を築いたミッキー・マントル。通算536本のHRは、スイッチヒッターとして歴代1位の大記録である。とんでもない飛距離を記録する長距離砲であり、最大では180メートルも飛ばしたとも言われている。その他にも三冠王も記録し、ポストシーズンでの18HRはメジャー史上最高記録であるなど、輝かしい球歴に囲まれている。
オクラホマ州スパビノーで生まれたマントルは、野球好きの父親と祖父の影響で幼き日から野球を楽しむ。セミプロチームでのプレー経験もあり、それなりに名の知れた父親は、当時のメジャーの捕手でもあるミッキー・カクレーンから、ミッキーという名前をもらったという。マントルがスイッチヒッターになるのは、同じくスイッチヒッターだった父親の影響で、自然と右でも左でも打てるようになったという。
田舎で生まれ育ったマントルだったが、運良くヤンキースのスカウトの目に止まり、1949年にはヤンキースと契約を交わした。1950年にはマイナーで137試合に出場し、打率.383で首位打者に輝く大活躍を見せた。1951年にはスプリングトレーニングでの活躍が認められ、開幕メジャーの座を勝ち取った。本来はショートを守っていたマントルだが、当時のチームにはフィル・リズドーがいたため、外野を守ることになる。
1951年、メジャーリーガーになった19歳のマントルには必然的に大きな注目が集まった。というのも、チームの看板選手でもあったジョー・ディマジオの引退が近づいていることもあり、新しく若いスターの登場が求められていたのである。この年限りで引退するディマジオがセンターを守り、マントルがライトを守るという新旧スターが外野で名を連ねた。
7月半ばにはマイナー降格を経験し、マントル自身もかなり落ち込むが、父の励ましもあり復活。桁違いの成績をマイナーで残したマントルは、8月末にはメジャー復帰。この年のワールドシリーズではジャイアンツと戦うが、第2戦でウイリー・メイズの打ったフライを追ったマントルが外野のスプリンクラーに足を引っかけ、右膝を痛めるアクシデント。すぐに手術したものの、引退するまで膝の故障には悩まされた。
ディマジオの抜けたセンターを守ることになったマントルは1952年、142試合に出場し、打率.311、23HR、87打点をマーク。さらに翌1953年の4月17日の対セネタース戦ではグリフィスパークの場外に飛び出す特大HRを放った。このHRはメジャー最長の当たりと認定され、飛距離は170メートルとも、180メートルとも言われている。
チームの看板打者に成長したマントルは1956年、打率.353、52HR、130打点という圧倒的な成績で三冠王に輝いた。誰もが認めるヤンキースの顔となったマントルは、この年のドジャースとのワールドシリーズ第5戦で決勝HRを放ち、さらに守備でもラインドライブの難しい打球を好捕するファインプレーで、シリーズ史上初となるドン・ラーセンの完全試合に花を添えている。
1956年、1957年と2年連続MVPを受賞したマントルは、1958年には42HR、1960年には40HRとそれぞれ本塁打王を獲得している。そして、迎えた1961年はマントルにとって、ベーブ・ルースの持つシーズン60HRという記録の更新が期待されるほどの打棒を開幕から見せていたが、シーズン終盤の9月に肺炎で2週間も休んでしまうアクシデントで、チームメイトのロジャー・マリスが61HRと記録を更新してしまった。
マリスの記録更新には批判が集まったものの、3番のマリスの後を打つ4番のマントルが打率.317、54HR、128打点という好成績を残した故のマリスの記録更新とも言われている。この2人はMM砲として他球団から恐れられ、この年のチームは世界一となった。翌1962年には打率.321、30HR、89打点という成績で自身3度目のMVPを獲得し、チームは2年連続世界一に輝いている。
1963年、フェンスにぶつかるアクシデントで左足を骨折してしまい、シーズンの大半を棒に振ってしまったマントル。翌1964年に打率.303、35HR、111打点という好成績を残すが、マントルらしい成績を残したのはこの年が最後である。この年のワールドシリーズでもカージナルスに3勝4敗で振り切られ、これ以降、ヤンキースは11年もワールドシリーズの舞台に立つことが出来なくなる。晩年のマントルは怪我に苦しめられ、ポジションをファーストへ移すこともあった。そして、結果的には1969年の開幕前に引退を発表した。
マントルは早逝の家系に生まれたこともあり、自分も早死にするものだと思い、若い頃から不摂生を重ねた。怪我に苦しんだマントルの原因はここにもあるとされている。しかし、実際は64歳まで生き抜き、1995年に息を引き取ったが、自らの不摂生を後々になって恥じたという。とはいえマントルの築き上げた記録は不滅であり、1974年には殿堂入りを果たした。ちなみに通算HR(536本)のうち、左打席から373本、右打席から163本打っている。
<written by Kenji@webmaster>
各年度別成績一覧
YEAR Team G AB R H 2B 3B HR RBI SO BB SB OBP SLG AVG ------------------------------------------------------------------------------ 1951 NYY 96 341 61 91 11 5 13 65 74 43 8 .349 .443 .267 1952 NYY 142 549 94 171 37 7 23 87 111 75 4 .394 .530 .311 1953 NYY 127 461 105 136 24 3 21 92 90 79 8 .398 .497 .295 1954 NYY 146 543 129 163 17 12 27 102 107 102 5 .408 .525 .300 1955 NYY 147 517 121 158 25 11 37 99 97 113 8 .431 .611 .306 1956 NYY 150 533 132 188 22 5 52 130 99 112 10 .464 .705 .353 1957 NYY 144 474 121 173 28 6 34 94 75 146 16 .512 .665 .365 1958 NYY 150 519 127 158 21 1 42 97 120 129 18 .443 .592 .304 1959 NYY 144 541 104 154 23 4 31 75 126 93 21 .390 .514 .285 1960 NYY 153 527 119 145 17 6 40 94 125 111 14 .399 .558 .275 1961 NYY 153 514 132 163 16 6 54 128 112 126 12 .448 .687 .317 1962 NYY 123 377 96 121 15 1 30 89 78 122 9 .486 .605 .321 1963 NYY 65 172 40 54 8 0 15 35 32 40 2 .441 .622 .314 1964 NYY 143 465 92 141 25 2 35 111 102 99 6 .423 .591 .303 1965 NYY 122 361 44 92 12 1 19 46 76 73 4 .379 .452 .255 1966 NYY 108 333 40 96 12 1 23 56 76 57 1 .389 .538 .288 1967 NYY 144 440 63 108 17 0 22 55 113 107 1 .391 .434 .245 1968 NYY 144 435 57 103 14 1 18 54 97 106 6 .385 .398 .237 ------------------------------------------------------------------------------ Total 2401 8102 1677 2415 344 72 536 1509 1710 1733 153 .421 .557 .298
受賞タイトル一覧
- MVP3回(1956,57,62)
- 首位打者1回(1956)
- 本塁打王4回(1955,56,58,60)
- 打点王1回(1956)
- ゴールドグラブ賞1回(1962)
- オールスター出場16回(1952~65,67,68)
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