- 2008-05-22 (木) 23:21
アトランタ・ブレーブス
ブレーブスは1876年、ナショナルリーグ発足と同時にボストンにて創設。1914年には15ゲーム差をひっくり返す大逆転激で初の世界一に輝く。長い低迷期があり、ミルウォーキーに移転した1957年、強敵ヤンキースを倒して2度目の世界一。さらにアトランタに移転後の1982年には開幕13連勝を記録し、地区優勝。1988年から3年連続最下位になるものの、1991年にリーグ史上初の最下位からリーグ優勝。1995年にはアトランタ移転初の世界一に輝く。その年から2005年まで11シーズン連続地区優勝と黄金時代を築いている(ストライキで中断された1994年を除けば、1991年から14シーズン連続地区優勝となる)。フランチャイズを2度移転した初めてのチームであるブレーブスはハンク・アーロン、ウォーレン・スパーンなどの名選手を輩出。ニックネームは何度か変わっており、1912年をもってブレーブスに落ち着く。
ブレーブス・球団データ
- 創立 /1876年ボストン→1953年ミルウォーキー→1966年アトランタ
- 世界一 /3回(1914, 1957, 1995)
- NL・リーグ優勝 /9回(1914, 1948, 1957, 1958, 1991, 1992, 1995, 1996, 1999)
- NL・東地区優勝 /11回(1995, 1996, 1997, 1998, 1999, 2000, 2001, 2002, 2003, 2004, 2005)
- NL・ワイルドカード /0回
- NL・西地区優勝 /5回(1969, 1982, 1991, 1992, 1993)
- 本拠地 /ターナーフィールド (1997~) Turner Field
ブレーブス・選手データ
| # | 投手 | # | 野手 | # | その他 |
|---|---|---|---|---|---|
| 15 | ティム・ハドソン(SP) | 24 | マーク・テシェーラ(1B) | ※ | フランク・レン(GM) |
| 29 | ジョン・スモルツ(SP) | 2 | ケリー・ジョンソン(2B) | 6 | ボビー・コックス(Manager) |
| 47 | トム・グラビン(SP) | 10 | チッパー・ジョーンズ(3B) | ||
| 32 | マイク・ハンプトン(SP) | 19 | ユネル・エスコバル(SS) | 36 | チャック・ジェームス(SP) |
| 49 | ジャイア・ジュジュンズ(SP) | 23 | マット・ディアズ(LF) | 51 | マイク・ゴンザレス(RP) |
| 58 | ピーター・モイラン(RP) | 11 | マーク・コッツェイ(CF) | 20 | スコット・ソーマン(1B) |
| 13 | ウイル・オーマン(SP) | 7 | ジェフ・フランコーア(RF) | 4 | オマー・インファンテ(SS) |
| 39 | ラファエル・ソリアーノ(RP) | 16 | ブライアン・マキャン(C) | ||
- 3 デール・マーフィー /Dale MURPHY(外野手)
- 21 ウォーレン・スパーン /Warren SPAHN(投手)
- 35 フィル・ニークロ /Phil NIEKRO(投手)
- 41 エディー・マシューズ /Eddie MATHEWS(三塁手・コーチ・監督)
- 42 ジャッキー・ロビンソン /Jackie ROBINSON(二塁手)☆全球団永久欠番
- 44 ハンク・アーロン /Hank AARON(外野手)
ブレーブス・球団史
1990年代最強チームと言われ、連続地区優勝を続けているアトランタ・ブレーブス。2度の移転を経験しているチームで黄金期と低迷期を経験している事でも知られているが、アメリカにプロの野球チームが出来た頃からの歴史を持つ伝統球団でもあり、数多くの名選手がそのユニフォームに袖を通している。
ブレーブスの前身となるチームが産声をあげたのは1871年までに遡る。初のプロ野球チームであるシンシナティ・レッドストッキングスを作り上げたハリー・ライトが、ボストンに本拠を構えるボストン・レッドストッキングスの監督となることから歴史は始まった。現存するナショナルリーグが創設される1876年よりも前に結成されていたナショナルアソシエーション(1871年~1875年まで存続)に参加し、1872年からリーグ4連覇を達成している。
1876年、ナショナルリーグが創立されるとそのリーグ開幕戦で、レッドストッキングスがフィラデルフィアに本拠を構えていた球団と戦い、6対5で勝利を収めた。メジャーリーグの歴史はここから始まったのである。初年度は39勝31敗という成績でリーグ4位に終わるが、翌1877年は42勝18敗をマークして初優勝を果たした。ちなみにこの年、トミー・ボンドがチーム60試合のうちの59試合に先発し、一人で40勝を挙げている。
1878年にも優勝を果たし、2連覇を達成したレッドストッキングス。1883年には愛称をビーンイーターズと変えるが、これは前年に誕生したアメリカンアソシエーションに属するシンシナティのチームと愛称がダブるのを避けたためである。ボストンは豆料理が有名だったことも、ビーンイーターズに落ち着いたのである。ちなみに19世紀の野球界で最も人気のある選手と言われるマイク・ケリーも1887年からの3年間、ビーンイーターズの一員としてプレーしている。
1890年代には5度の優勝を果たしたビーンイーターズも、アメリカンリーグが創立され2大リーグ時代となった1901年以降は優勝と縁遠いチームになってしまう。下位に低迷することが当たり前となり、1909年からは4年連続最下位に落ち込んでしまった。オーナーが代わると、そのオーナーの名前から愛称がドームスに変わるなど不安定な時期でもある。今のブレーブスに落ち着くのは19世紀の名選手であるジョン・ウォードがブレーブスの球団社長になり、そのウォードがブレーブスという愛称に決めた。
低迷するブレーブスに光が灯り始めたのは1913年から名将として知られていたジョージ・スターリングが監督に就任してからである。1913年は5位に浮上したブレーブスだが、翌1914年は開幕当初に4勝18敗と散々な成績で下位に低迷。独立記念日の7月4日の段階で、首位のジャイアンツとの差は15ゲームと大きく開いていた。しかし、ブレーブスはここから快進撃を見せた。以後、68勝19敗という驚異的な勝率で勝ち上がり、終わってみれば2位ジャイアンツに10.5ゲーム差を付けてのリーグ優勝を果たした。
この年のブレーブスは、「ミラクルブレーブス」と呼ばれ、一つの伝説にもなっている。ワールドシリーズでは前年に世界一になっているアスレティックスと対決。戦前の予想はアスレティックス有利だったが、蓋を開けてみればブレーブスの4連勝で幕を閉じた。このシリーズでは、かつてカブスの世界一に貢献もしているジョニー・エバースが打率.438をマークし、シーズンでそれぞれ26勝を挙げているディック・ルドルフ、ビル・ジェイムスもそれぞれ2勝をマークするなど、ブレーブス初の世界一に大きく貢献した。
しかし、翌年以降は再び優勝とは縁遠くなる。同じボストンを本拠とするレッドソックスが常勝チームに変貌する中でブレーブスは取り残された。1915年シーズン途中には新本拠地ブレーブスフィールドが開場するが、観客動員が伸びずに苦しむシーズンが続く。
1928年にはロジャース・ホーンスビーがブレーブスの一員として1年だけプレー。打率.387をマークして首位打者のタイトルを獲得し、シーズン途中に獲得した往年の名選手であったジョージ・シスラーを獲得し、リーグ2位となる打率.340をマークしたが、チームは50勝103敗に終わり、リーグ7位に沈んでいる。さらに1935年にはヤンキースを解雇されたベーブ・ルースを獲得したが、6月には早々に現役を引退。この年は38勝115敗で最下位となっている。
1936年には愛称を一般公募し、ブレーブスからビーズに変更し、本拠地球場もナショナルリーグパークと改称した。翌1937年には33歳で初めてメジャー昇格したジム・ターナーがいきなり20勝を挙げる活躍で勝率5割越え(.520)を果たしたこともあったが、1941年には愛称をかつてのブレーブスに戻している。
戦争が終わった1946年、ブレーブスの監督に就任したのは1942年からのカージナルスをリーグ3連覇に導いたビリー・サウスワースであった。ちょうどこの頃のブレーブスには左腕ウォーレン・スパーンと右腕ジョニー・セインというエース格の両輪が誕生していた。
実を結んだのは1948年のことで、この時には「スパーンとセインが投げて、あとは雨よ降れ」という名文句まで生まれるほど、両投手にかかる期待は大きかった。そして、2人合わせて39勝をマークして、ブレーブスは実に24年ぶりとなるリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズではボブ・フェラー、ボブ・レモンという好投手を擁するインディアンズと対戦し、惜しくも2勝4敗で敗れてしまっている。
その後もスパーンとセインは多くの白星を積み上げるがチームは下位を低迷。優勝した1948年には145万もの観客を集めたが、1951年には48万まで落ち込む。翌1952年に28万となったところで、ブレーブスには本拠地移転の噂があがり、1953年からミルウォーキーへの移転が正式に決まる。
ボストンでの最後のシーズンとなった1952年は、チームも7位に終わっているが、エディー・マシューズがメジャー定着したのがこの年で、いきなり25HRするパワーを見せつけた。しかも、シーズン終盤には新人ながら1試合3HRを記録するなど、新時代の幕開けを感じさせる予感はあったのである。こうして、ブレーブスはナショナルリーグの中で77年間も本拠を構えたボストンを離れ、ミルウォーキーに移ったわけだが、メジャーリーグでの本拠地移転は1903年以来のことでもあった。
ミルウォーキー移転1年目の1953年、観客動員数はブレーブス史上最高となる127万人を記録。若いマシューズも打率.302、47HR、135打点をマークし、21歳の若さで本塁打王に輝いた。チームも2位になるなど、ミルウォーキーにおいてブレーブスは幸先のスタートを切ったといえる。
1954年にはジャイアンツからボビー・トムソンを獲得するが、そのトムソンが開幕前に怪我で離脱すると、まだ20歳だったハンク・アーロンにチャンスが巡ってきた。元々は内野手であったが、ブレーブスのレフトの座を掴み、ここから大打者への道を歩みだした。さらにこの年は、213万人もの観客動員を集め、ミルウォーキーの野球熱の高さを感じさると共に、有望な若手選手の台頭も目立っていた。
1956年にはアーロンが打率.328で首位打者のタイトルを獲得すれば、チームもドジャースと激しい首位争いを演じた。シーズン最後のカージナルス3連戦を前に1ゲーム差で首位に立っていたブレーブスは、この3連戦でわずか1勝しか出来ず、最終戦でドジャースに逆転されて優勝を逃してしまった。
1957年、前年の悔しさをバネに移転後初のリーグ優勝を飾ったブレーブス。アーロンは、44HR、132打点で二冠王に輝き、MVPも受賞した。ワールドシリーズではヤンキースと対戦することになるが、ヤンキースの監督はかつてブレーブスで監督を務めていたこともあるケーシー・ステンゲルであり、「ブレーブスの野球は草野球」と揶揄されることもあったのである。
このシリーズのポイントは、ブレーブスの1勝2敗で迎えた第4戦であり、ここまで不調だったマシューズが延長10回裏にサヨナラ2ランHRを放ち、2勝2敗とタイにしたことである。これで流れを掴み、ブレーブスは4勝3敗で、実に1914年以来の世界一に輝いた。アーロンは打率.393、3HR、7打点と打ちまくれば、投手陣ではシーズン21勝でサイヤング賞を受賞したスパーンよりも、かつてヤンキースを放出された経験のあるルー・バーデットが3勝をマークし、シリーズMVPに輝いている。
1958年にも22勝のスパーン、20勝のバーデットという2人の20勝投手に、アーロン、マシューズという打線の軸を擁するブレーブスが2年連続のリーグ優勝を果たす。ワールドシリーズでは2年連続でヤンキースと戦い、3勝1敗と王手を懸けながらも、ここから3連敗で2連覇を逃してしまった。
1959年、シーズンを終えた段階でドジャースと同率で並び、3試合のプレーオフを行うが、あっさり2連敗してしまい3年連続リーグ優勝を逃してしまう。敗れはしたが、この年はアーロンが打率.355で自身2度目の首位打者となれば、マシューズが46HRで2度目の本塁打王に輝いている。翌1960年もチーム成績は2位に終わり、その後は優勝から遠のいてしまう。それと共に観客動員数もドンドン減っていったのである。
1963年、アーロンは44HR、130打点で二冠王となるが、打率は.319に終わり、惜しくも三冠王は逃してしまった。さらにこの年は42歳となっていたスパーンが23勝する活躍を見せるが、チームは10チーム中6位に終わり、観客動員数は77万に落ち込んだ。ちなみにスパーンが20勝をマークするのは13度目であるが、これが最後に記録したシーズン20勝でもある。
チーム成績が下降し、1965年には観客動員が55万人まで落ち込むと、この年を最後に南部のアトランタへの移転を決めた。移転後1年目の1966年、チーム成績は前年同様に5位だったが、観客動員は3倍の153万人を記録した。その中でアーロンは44HR、127打点をマークして3度目の二冠王に輝いている。
1969年からメジャーリーグはエクスパンションの影響で、東西の2地区制となり、ブレーブスは西地区に所属。8月半ばの段階では地区5位だったブレーブスがここから快進撃を見せて、西地区制覇を果たす。本塁打王こそ逃すが、主砲のアーロンは44HRを放てば、ナックルボールを武器にするフィル・ニークロが23勝をマークしている。しかし、リーグチャンピオンシップシリーズでは東地区を勝ち上がったメッツの前にあっさり3連敗してしまい敗れてしまう。かつての「ミラクルブレーブス」は「ミラクルメッツ」の前に敗れたのである。
1970年代前半のブレーブスはアーロンのバットが支えたといえる。1970年に通算3000本安打を達成し、翌1971年には通算600HRを記録したアーロンは、1973年のシーズンが終わった段階での通算HR数が713本であり、ルースのメジャー記録にあと1本で追いつくところまでこぎつけた。この1973年にはアーロン(40HR)の他に、デーブ・ジョンソン(43HR)、ダレン・エバンス(41HR)と40HRトリオを形成するものの優勝には縁がないというチーム状況ではあったが、アーロンのメジャー記録への挑戦は全米の注目を集めた。
そして1974年の開幕戦でHRを放ち、ルースのHR記録(714本)に並んだアーロンは、本拠地フルトンカウンティスタジアムでの開幕戦(4月8日)の対ドジャース戦で、アル・ダウニングからHRを放ち、新記録を樹立した。大偉業を達成したアーロンはこの年のオフに、かつて本拠地としてプレーしていたミルウォーキーに誕生して間もないブリュワーズに移籍し、2年間プレーした後、ユニフォームを脱いでいる。
すっかりと優勝から縁遠くなったブレーブス。1977年にはオーナーのテッド・ターナーが業を煮やし、自らユニフォームを着て監督になるが、リーグ会長から規約違反との通達を受け、1試合で退く珍事もあった。ずっと低空飛行を続けるチームを支えていたのはエースのニークロと、1977年にメジャーデビューしたデール・マーフィーと1978年のドラフトで全米1位指名を受けて、マイナーを経験せずにいきなりメジャーで新人王を獲得する打棒を見せたボブ・ホーナーであった。
1982年にはジョー・トーレ新監督の元、開幕13連勝を果たし、久々に地区優勝を果たすがリーグチャンピオンシップシリーズではカージナルスの前にあっさり3連敗してしまう。しかし、マーフィーはアル・オリバーと並ぶ109打点をマークして打点王を獲得し、MVPも受賞している。ちなみにマーフィーは翌1983年にも2年連続のMVPと打点王(121打点)となっている。さらにマーフィーは1984年からは2年連続の本塁打王にもなっている。
1986年にはホーナーが1試合4HRをマークする快挙を達成するが、オフにFAとなると、オーナー側の共謀で他のどのチームとも契約できなくなると、翌1987年には日本のプロ野球に活躍の場を求めた。ちなみにホーナーは1988年にカージナルスでメジャー復帰を果たすが、その年限りで現役を退いている。
1988年から3年連続地区最下位になったブレーブスは本格的にチームの再建に乗り出し、1990年シーズン終了後にロイヤルズのGMを務めていたジョン・シャーホルツをGMとして迎え、それまでGMだったボビー・コックスを監督に戻した(正確にはコックスは1990年途中から監督に復帰していた)。
1990年、これまで1980年代の弱かったブレーブスを支えていたマーフィーをフィリーズに放出。しかし、入れ替わりのようにメジャーに定着したデビッド・ジャスティスがこの年に新人王を獲得する活躍を見せるなど、新しい芽が吹き出し始めた。投手陣でもトム・グラビンを始めとして、ジョン・スモルツ、スティーブ・エイブリーらの若手が台頭してきたのである。
新生ブレーブスとなった1991年、カージナルスから獲得したばかりのテリー・ペンドルトンが打率.319をマークして首位打者を獲得するとと共に、若きエースとしてグラビンが20勝を挙げてサイヤング賞を獲得する活躍を見せて、前年の最下位から地区優勝を果たした。そして、リーグチャンピオンシップシリーズではパイレーツを迎え撃った。
2勝3敗と窮地に立たされた第6戦、先発のエイバリーが8回まで無失点に抑える好投を見せて、最終回にグレッグ・オルソンの決勝タイムリーで勝ち越してブレーブスが逆王手をかける。第7戦は先発スモルツがパイレーツ打線を散発6安打の完封で抑え込み、ブレーブスはリーグ優勝を果たした。シリーズMVPは、第2戦でも8回無失点に抑えるなど2勝を挙げているエイブリーである。ブレーブスにとってはミルウォーキー時代の1958年以来、33年ぶりのワールドシリーズ出場であり、アトランタ移転後としては初めてである。
ワールドシリーズでの対戦相手はツインズであり、ツインズは1987年の世界一チームではあるが、前年は最下位に終わっていたこともあり、メジャー史上初となる前年最下位チーム同士のワールドシリーズが行われた。ブレーブスにとって、敵地メトロドームで2連敗というスタートになったが、舞台をアトランタへ移した第3戦、延長12回の末にマーク・レムキーのサヨナラ打でまず1勝。これで勢いに乗ったブレーブスは3連勝で世界一に王手を懸けた。
しかし、第6戦は延長11回裏にカービー・パケットのサヨナラHRが飛び出して、敗れてしまい3勝3敗のタイとなる。第7戦は、スモルツとツインズ先発のジャック・モリスの激しい投げ合いが行われ、最終的には延長10回裏にジーン・ラーキンのサヨナラ打が飛び出して、ブレーブスは敗れてしまった。この年のシリーズは、両チームが本拠地試合のみ勝利する珍しいシリーズでもあったが、内容は非常に濃かったといえる。
1992年、再び地区優勝を果たしたブレーブスはリーグチャンピオンシップシリーズでパイレーツと再戦。3勝3敗で迎えた第7戦、最終回を迎えた段階で0対2とリードを奪われていたが、そこから驚異的な粘りを見せて、最後はフランシスコ・キャブレラのサヨナラ打で、2年連続リーグ優勝を決めた。しかし、ワールドシリーズではカナダに本拠を構えるブルージェイズとの対戦となり、2勝4敗で敗れてしまった。
2年連続で世界一を逃したブレーブスはオフにカブスからFAとなったグレッグ・マダックスの獲得に動いた。マダックスは1992年、カブスのエースとしてサイヤング賞を獲得とした投手で、ヤンキースなどが本格的に獲得にも動く中、「優勝を狙えるチームで投げたい」というマダックスはブレーブスを選んだ。こうしてブレーブスの投手陣はより強固なものとなるのである。
マダックスを加えた1993年、ジャイアンツとのデッドヒートとなるが、オールスター後にパドレスからフレッド・マグリフを獲得すると、それ以降は51勝17敗(勝率.750)という破竹の勢いで勝ち進んだ。結果的にはシーズン最終戦で優勝を決めたわけだが、マグリフ(37HR、101打点)、ジャスティス(40HR、120打点)、ロン・ガント(36HR、117打点)の3人が100打点を突破すれば、マダックス(20勝)、グラビン(22勝)、エイブリー(18勝)、スモルツ(15勝)と投打が見事に絡み合っていたのである。
3年連続地区優勝を果たすものの、フィリーズのリーグチャンピオンシップシリーズではカート・シリングやミッチ・ウイリアムスらの好投の前にワールドシリーズへの出場を果たすことは出来なかった。翌1994年はそれまでの2地区制から3地区制に変更となり、ブレーブスは東地区へ移動。しかし、この年はストライキでシーズンが中断されてしまい、ブレーブスは地区2位でシーズンを終えることになってしまった。
ストライキが開けた1995年、2位チームに21ゲーム差をつける圧倒的な強さで地区優勝を果たす。マダックスは19勝2敗、防御率1.63という驚異的な数字を残し、カブス時代の1992年から数えて4年連続のサイヤング賞を受賞。さらに1990年の全米ドラフト1位というずっと注目を集めながら、怪我で出遅れていたチッパー・ジョーンズもこの年に初めてメジャーでフルシーズンを経験し、新人王こそ野茂英雄に譲ったものの次代のスター候補としての期待には応えたといえる。
ディビジョンシリーズでロッキーズを3勝1敗で振り切ると、レッズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦で延長11回の熱戦を制すると、その勢いで4連勝してリーグ優勝を決めた。ワールドシリーズではシーズン100勝をマークしたインディアンズとの対戦となった。
第1戦ではマダックスとオーレル・ハーシハイザーとの投げ合いで投手戦となったが、マグリフのHRでまずはブレーブスが先勝。第2戦でもハビア・ロペスの逆転HRで勝ち越して2連勝。インディアンズも意地を見せたが、3勝2敗で迎えた第6戦、先発グラビンが8回を無失点に抑えれば、ジャスティスのHRが6回裏に飛び出し、この1点を最後はクローザーのマーク・ウォーラーズが守りきり、ブレーブスは1957年以来の世界一の栄冠を手にした。
1996年もブレーブスは強さを発揮し、悠々と地区制覇を果たした。その中でもスモルツの快進撃が光り、5月末の段階で早くもシーズン10勝目をマーク。結局、14連勝を含む24勝8敗、防御率2.94、276奪三振と好成績を残してサイヤング賞を受賞している。打線でもC・ジョーンズ、マグリフ、ライアン・クレスコ、マーキス・グリッソムらがかみ合い、チーム打率は.270をマーク。そして、ディビジョンシリーズではドジャースを3連勝で一蹴。リーグチャンピオンシップシリーズではカージナルスの前に1勝3敗と追いつめられるが、第5戦以降は15対0、3対1、15対0というスコアで3連勝し、逆転でのリーグ優勝を果たした。
2年連続となったワールドシリーズではヤンキースと対戦。第1戦では新人のアンドリュー・ジョーンズがシリーズ初打席から2打席連続HRを放つ衝撃的なデビューを飾り、2連勝したブレーブスだが、第3戦でのヤンキース先発のデビッド・コーンの好投以降、流れが変わった。第4戦では勝ち越していながら、ウォーラーズが打たれて逆転負けを食らい、第5戦ではアンディ・ペティット、ジョン・ウェッテランドの完封リレーの前に敗れてしまった。第6戦では頼みのマダックスが打たれて、2連勝4連敗という形で世界一になることは出来なかった。
それまで本拠地としていたフルトンカウンティスタジアムから、新球場ターナーフィールドに本拠を移した1997年、マダックス、グラビン、スモルツに加え、前年の途中から加わっていたデニー・ネイグルで4本柱を形成。シーズン101勝をマークして当然のように地区優勝を決めたが、ワイルドカードとして出場した創立5年目のマーリンズにリーグチャンピオンシップシリーズで敗れてしまい、3年連続のワールドシリーズ出場はならなかった。
1998年は新加入のアンドレス・ガララーガが44HR、121打点と猛打を見せれば、台頭著しいケビン・ミルウッドも17勝をマークし、さらにグラビンも自身2度目のサイヤング賞を受賞する活躍を見せて地区優勝するが、またもやワールドシリーズ出場は果たせない。翌1999年も主砲ガララーガの離脱はある中、C・ジョーンズのMVPを獲得するほどの勝負強い打撃で地区優勝を果たす。リーグチャンピオンシップシリーズでもメッツを振り切るが、ワールドシリーズではヤンキースの前にまさかの4連敗。「1990年代最強チーム」と言われたブレーブスにとって厳しい敗戦でもあった。
2000年はディビジョンシリーズでカージナルスに敗退。翌2001年はリーグチャンピオンシップシリーズでダイヤモンドバックスに敗退。2002年は肘の手術から復活したスモルツがクローザーに転向し、シーズン55セーブをマークする好投を見せて、11シーズン連続の地区優勝を決めたが、ディビジョンシリーズでジャイアンツに2勝後に3連敗で苦汁をなめる結果に終わった。
この年のオフには、ブレーブス一筋で投げ続けていたグラビンがメッツへ移籍し、緊縮財政の問題からミルウッドをフィリーズへ放出せざるを得なくなった。とはいえブレーブスが優勝候補であることは間違いなく、有望な若手選手を数多く抱えていることからも、今後も見逃せないチームといえるだろう。
(近日、大幅更新予定。。。)
<written by Kenji@webmaster>
ブレーブス・各年度別成績一覧
ブレーブス・球団名の変換史
- Atlanta BRAVES (1966~現在)
- Milwaukee BRAVES (1953~1965)
- Boston BRAVES (1941~1952)
- Boston BEES (1936~1940)
- Boston BRAVES (1912~1935)
- Boston PILGRIMS (1909~1911)
- Boston DOVES (1907~1908)
- Boston BEANEATERS (1883~1906)
- Boston RED CAPS (1876~1882)
ブレーブス・マイナー組織

