- 2008-05-23 (金) 0:15
ロサンゼルス・ドジャース
前身は1883年のニューヨークのブルックリンクラブ。1890年にナショナルリーグ加盟。加盟1年目に優勝を飾るがその後は長い低迷期が続く。1947年にはメジャーリーグ史上初の黒人プレイヤー、ジャッキー・ロビンソンを 登場させる。その後、黄金時代を築き、1952年から5年間で4度のリーグ優勝。特に1955年にはワールドシリーズで宿敵ヤンキースを破り、通算8度目にして初の世界一に輝く。1958年に西海岸ロサンゼルスへ移転し、ファームの充実を念頭に置いたチーム作りにより、1988年には通算20回目のリーグ優勝、6回目の世界一に輝く。1995年には日本から野茂英雄投手が入団し、名門ドジャースに歴史が刻まれた。ニックネームはブルックリンの地元住民が路面電車を避け「トロリー・ドジャース」と呼ばれたことからドジャースに決定。
ドジャース・球団データ
- 創立 /1890年ブルックリン→1958年ロサンゼルス
- 世界一 /6回(1955, 1959, 1963, 1965, 1981, 1988)
- NL・リーグ優勝 /18回(1916, 1920, 1941, 1947, 1949, 1952, 1953, 1955, 1956, 1959, 1963, 1965, 1966, 1974, 1977, 1978, 1981, 1988)
- NL・西地区優勝 /10回(1974, 1977, 1978, 1981, 1983, 1985, 1988, 1994, 1995, 2004)
- NL・ワイルドカード /2回(1996, 2006)
- 本拠地 /ドジャースタジアム (1962~) Dodger Stadium
ドジャース・選手データ
| # | 投手 | # | 野手 | # | その他 |
|---|---|---|---|---|---|
| 31 | ブラッド・ペニー(SP) | 7 | ジェームス・ロニー(1B) | ※ | ネッド・コレッティ(GM) |
| 23 | デレク・ロウ(SP) | 12 | ジェフ・ケント(2B) | 6 | ジョー・トーレ(Manager) |
| 58 | チャド・ビリングスリー(SP) | 5 | ノマー・ガルシアパーラ(3B) | ||
| 18 | 黒田博樹(SP) | 15 | ラファエル・ファーカル(SS) | 29 | ジェイソン・シュミット(SP) |
| 21 | エステバン・ローアイザ(SP) | 9 | ホアン・ピエール(LF) | 45 | スコット・プロクター(RP) |
| 97 | ジョー・ベイメル(SP) | 25 | アンドリュー・ジョーンズ(CF) | 16 | アンドレ・イーシアー(RF) |
| 51 | ヨナサン・ブロクストン(RP) | 27 | マット・ケンプ(RF) | 13 | トニー・アブレイユ(3B) |
| 44 | 斉藤隆(RP) | 55 | ラッセル・マーチン(C) | 47 | マーク・スウィーニー(1B) |
- 1 ピー・ウィー・リース /Pee Wee REESE(遊撃手・コーチ)
- 2 トミー・ラソーダ /Tommy LASORDA(投手・監督・GM)
- 4 デューク・スナイダー /Duke SNIDER(外野手)
- 19 ジム・ギリアム /Jim GILLIAM(二塁手・コーチ)
- 20 ドン・サットン /Don SUTTON(投手)
- 24 ウォルスター・オルストン /Walter ALSTON(監督)
- 32 サンディー・コーファックス /Sandy KOUFAX(投手)
- 39 ロイ・キャンパネラ /Roy CAMPANELLA(捕手)
- 42 ジャッキー・ロビンソン /Jackie ROBINSON(二塁手)
- 53 ドン・ドライスデール /Don DRYSDALE
ドジャース・球団史
ニューヨークの下町ブルックリンで産声を上げ、その後、西海岸へ移転したロサンゼルス・ドジャース。黒人初のメジャーリーガー、ジャッキー・ロビンソンを輩出するなど開拓精神は旺盛で、球界内におけるその功績は計り知れない。古くから日本球界と最も縁のある球団であり、野茂英雄や石井一久などの日本人選手も在籍している。
ブルックリンでプロの野球チームが誕生したのは1884年のことで、この時はアメリカンアソシエーション(1882年から10年間存続したリーグ)に加盟した。当時はブルックリン・ブライドグルームスという愛称で初年度は13チーム中9位という成績に終わっている。1889年に初めてのリーグ優勝を果たすと、翌1890年からはナショナルリーグに加盟。初めてメジャー組織に加わったこの年、いきなり優勝を果たしている。
1899年にシュパーバスという愛称に変えて2年連続優勝を果たし、19世紀の最後を締めくくった。1901年からのメジャーリーグは2大リーグ制となったわけだが、ちょうどブルックリンの町中を走るトロリー電車をひらりと避けていく人を意味するトロリードジャースという愛称が定着し始め、いつの間にか縮まってドジャースと呼ばれることになる。
20世紀最初のドジャースは苦しんだ。当時のニューヨークにはドジャースの他にジョン・マグロー率いるジャイアンツという強いチームがあったため、ドジャースはなかなか目立っていなかったというのが実状である。1905年には首位ジャイアンツに56.5ゲーム差を付けられての最下位に終わり、そのまま低空飛行を続けた。
チームが変わるきっかけを掴んだのは1913年、ブルックリンに新たに建設されたエベッツフィールドに移し、翌1914年から「アンクル・ロビー」と呼ばれるウィルバート・ロビンソンが監督が就任して以降である。ちなみにロビンソンは1931年まで監督を務めるのだが、この間はドジャースではなくロビンスと呼ばれていたのである。
1916年、ロビンスはエースのジェフ・フィファーが25勝を挙げる活躍を見せ、20世紀初のリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズでは若いベーブ・ルースが投手として活躍していたレッドソックスと対戦。第2戦ではルースとシェリー・スミスが延長14回まで激しく投げ合い、惜しくも敗れてしまう。結果的には初のワールドシリーズは、1勝4敗で落としてしまった。
再びワールドシリーズに出場したのは1920年のことで、相手チームはインディアンズだった。この時は9回戦(5戦先勝で世界一)で行われ、第2戦、第3戦を連勝するが、そこから連敗。第6戦、第7戦は連続完封負けで、2勝5敗で落としてしまった。インディアンズはシーズン中にショートを守るレイ・チャップマンを、死球で命を落としてしまうアクシデントにも見舞われており、ロビンスとは勢いが違っていたのも事実である。
1924年にはシーズン終盤の猛攻で追い上げを見せるものの、最終的にはジャイアンツに1.5ゲーム差で振り切られ、惜しくも2位に終わっている。1920年代、優勝を果たせなかったロビンスだが、この間チームを引っ張ったのは剛速球投手で知られるダジー・ヴァンスだった。1922年から7年連続で最多奪三振のタイトルを手にし、1924年は15連勝を含む28勝(6敗)を挙げて、さらにこの年のリーグMVPも受賞している。
1931年に監督のロビンソンが勇退し、再びドジャースに戻る。1934年からの3年間は、後にヤンキースで名監督の称号を手にするケーシー・ステンゲルが指揮を取るが、下位に低迷。同じニューヨークに本拠を構えていたジャイアンツのビル・テリー監督には、まだブルックリンに球団があったのか、と揶揄される始末である。
そして、1938年にはラリー・マクフェイルがGMに就任し、チームの改革に着手。この年の6月15日に、本拠地のエベッツフィールドでレッズを迎えて、初のナイトゲームを開催。しかし、記念すべきこの試合はレッズ先発のジョニー・バンダミーアにノーヒッターを食らう大失態を演じた。バンダミーアはちょうどこの4日前にブレーブス相手にノーヒッターを達成しており、メジャー史上唯一となる2試合連続ノーヒッターを献上してしまう。
マクフェイルは観客を集めるために引退していたルースのコーチ招聘も行った。実際、ルースのおかげで客席は埋まったが、1939年にレオ・ドローチャーが選手兼任の新監督として就任すると、あっさりルースを解任した。ヤンキース時代に一緒にプレーしたこともあり、ドローチャーに取っては先輩でもあったが、仲の方は決して良かったわけではない。
1938年にフィリーズからカルフ・カミリを獲得し、チーム力が安定し始めたドジャース。そして迎えた1941年、カミリが34HR、120打点をマークし、二冠王とMVPを受賞する活躍を見せ、ピート・ライザーは打率.343で首位打者に輝き、カービー・ハイビー、リトロー・ワイアットが共に22勝を挙げる活躍で実に21年ぶりとなるリーグ優勝を手にしたドジャース。
久々のワールドシリーズではヤンキースと戦ったドジャースは1勝2敗で迎えた第4戦、4対3と1点リードで迎えた最終回2アウトという場面で空振り三振でゲームセットと思われた瞬間、捕手のミッキー・オーウェンがまさかのパスボール。ここからヤンキース打線に火がつき、逆転負けを食らってしまった。結局、1勝4敗で敗れたドジャースは世界一の座を手にすることは出来なかった。
1942年はカージナルスに2ゲーム差で振り切られて優勝は逃すが、シーズン終了後に常勝カージナルスの基礎を築いたブランチ・リッキーをGMとして招聘することになった。リッキーはカージナルス時代にファーム制度を確立し、数多くのマイナー選手をメジャーに送り込むことで、カージナルスに黄金時代を作ったことでも知られていた。このリッキーの一番の功績は、当時メジャーリーグでのプレーを許されてなかった黒人選手の登用である。
黒人選手へ門戸を開かせるためのリッキーの準備は周到だった。実力があるだけでなく、人格的にも優れた選手を見つけだす必要があったのである。各地にスカウトを送り、そのリストの中に名前が残った1人にロビンソンがいた。当時、ニグロリーグの名門カンザスシティ・モナークスのショートを守っていた26歳のロビンソンは、リッキーとの長い話し合いを行い、1945年シーズン終盤、ついに契約を交わすに至る。
1946年、ドジャース傘下のモントリオール・ロイヤルズに送りこまれたロビンソンは、数々の非難の中でのプレーを強いられたが、アグレッシブなプレーで困難を一つ一つ取り払っていく。人種差別が比較的に緩やかなカナダから始めたというのも、リッキーの計算の一つだったのである。
1947年、ついにロビンソンはメジャー昇格を果たす。黒人選手の登場に対戦チームはもちろん。チームメイトからも反対意見が集まる。遠征中はチームメイトと同じホテルに泊まれないなどの厳しい状況ではあったが、151試合に出場し、打率.297、12HR、48打点、29盗塁という成績を残して、この年から制定されたばかりの新人王を受賞。こうしてロビンソンはその実力で、時代の大きな壁を突き破ったのである。
ロビンソンを加えた1947年、ドジャースは6年ぶりにリーグ優勝を飾る。再びヤンキースとのワールドシリーズとなるが、熱戦が続き第7戦までもつれる展開も最後はヤンキース打線の猛打の前に敗れてしまった。しかし、ロビンソンが登場したこの年をきっかけに、ドジャースはドン・ニューカムやロイ・キャンパネラらの黒人選手をチームに加え、ギル・ホッジスやデューク・スナイダーらと共に毎年のように優勝を狙えるチームへと変貌した。
1949年、カージナルスと激しい優勝争いを行い、最終戦でようやく優勝を決めたドジャース。ロビンソンは打率.342、37盗塁で首位打者と盗塁王の2つのタイトルを獲得し、MVPも受賞。ワールドシリーズでは再びヤンキースと対戦するが、そのヤンキースの監督はかつてドジャースの監督を務めたこともあるステンゲルであり、ジョー・ディマジオを軸に黄金時代を迎えていた。そして、この年のシリーズも1勝4敗で、ドジャースはヤンキースの軍門に降ってしまった。
1951年はシーズン終盤のジャイアンツの猛烈な追い上げにより、シーズン最終戦に同率に追いつかれる。3試合のプレーオフが行われたが、1勝1敗で迎えた第3戦の最終回、ボビー・トムソンに劇的な逆転サヨナラHRを浴び、優勝を逃してしまった。この時のジャイアンツの監督が、1948年までドジャースの監督を務めていたが、女性問題などでその座を追われたドローチャーだったのがなんとも皮肉ではある。
1950年から、それまでチームの顧問弁護士を務めていたウォルター・オマリーがオーナーとなった。1951年からチャーリー・ドレッセンを監督として招き、1952年、1953年と2年連続リーグ優勝を果たすも、2度ともヤンキースの前に敗れてしまう。特に1953年は首位打者となったカール・フリロ(打率.344)の他に、スナイダー(.336)、ロビンソン(.329)、キャンパネラ(.312)、ホッジス(.302)と5人の3割打者を抱えながらの敗戦である。待てども待てども世界一になれないドジャースファンの間からは「ウェイト・ティル・ネクストイヤー(来年まで待とう)」という合い言葉が自然に生まれることになる。
1953年のオフ、複数年契約を求めたドレッセンだが、1年契約を基本姿勢とするドジャースはそれを拒否。新たに無名だったウォルター・オルストンが監督として就任した。オルストンの選手生活はカージナルスで1打数1三振というものだったが、マイナーでの監督としての評価は非常に高く、それを買われての大抜擢だった。
就任1年目はリーグ2位だったが、2年目の1955年にはリーグ優勝を果たしたドジャース。ワールドシリーズではヤンキースと再度戦い、3勝3敗で迎えた第7戦、ジョニー・ポドレスがヤンキース打線を完封して、球団史上初の世界一を決めた。実に8度目の挑戦にして、初めての世界一であった。翌1956年もリーグ優勝を果たすが、ワールドシリーズではヤンキースの前に3勝4敗で敗れてしまった。しかも、第5戦ではドン・ラーセンに完全試合を食らっている。
1956年のシーズン後、ロビンソンにライバルのジャイアンツへの移籍が通告されるが、ロビンソンがそれを拒否して引退を発表。なお、チームはブルックリンと新球場建設に関しての話し合っていたが、一向に進行していないということもあった。そして、交通機関の発達したということもあり、ドジャースは1957年シーズンを最後に、ブルックリンの地を離れ、メジャーリーグとして未開拓だった西海岸のロサンゼルスへの移転を決めた。西海岸へ移転したのはドジャースだけでなく、同じニューヨークに本拠を構えていたジャイアンツも西海岸のサンフランシスコへの移転を決めるなど、メジャーリーグも新しい時代を迎えたのである。
ドジャースがロサンゼルスで本拠地として構えたのは、かつてオリンピックでも使われたロサンゼルスコロシアムである。野球専用の球場ではないため、レフトが極端に短く、高いフェンスを立てて対策を講じた。移転1年目はリーグ7位に低迷するが、翌1959年にはリーグ優勝を果たし、観客動員数も初めて200万人を越えた。この年はシーズンが終了した段階でブレーブスと同率首位であり、3試合のプレーオフで2連勝を果たした上でのリーグ優勝だった。
ワールドシリーズではホワイトソックスと対戦。シーズン8勝のラリー・シェリーが2勝、防御率0.71という好成績を残し、4勝2敗でロサンゼルス移転後初の世界一に輝いた。特にロサンゼルスコロシアムで行われた第5戦は、観客動員92706人を記録し、これはメジャー最多の記録である。そして、車社会ロサンゼルスを象徴するような、駐車場に囲まれたドジャースタジアムが開場するのは1962年のことである。
ドジャースタジアムが開場する頃には右腕のドン・ドライスデール、左腕のサンディー・コーファックスという両輪がドジャースに誕生していた。1962年にはドライスデールが25勝をマークしてサイヤング賞を受賞すると、翌1963年にはコーファックスが25勝をマークして、MVPとサイヤング賞を同時受賞している。
1963年、4年ぶりにリーグ優勝を果たしたドジャースは宿敵ヤンキースとワールドシリーズで対戦。第1戦でコーファックスが1試合15奪三振というメジャー記録を樹立して勝利を飾ると、そのままの勢いでドジャースが4連勝で世界一となった。当時のドジャースにはパワーのある選手がおらず、必然的にスピードある攻撃と投手力に頼らざるを得なかったが、それで勝つスタイルはできあがっていたのである。
1965年にも、27勝を挙げたコーファックスを軸にリーグ優勝を果たすとワールドシリーズではツインズを迎え撃つ。第1戦と第2戦はドライスデールとコーファックスで連敗してしまうが、ここから反撃を開始。コーファックスは第5戦と第7戦で完封し、2年ぶりの世界一を呼び込んだのである。
1966年、開幕前にエースの2人の契約問題でこじれるも、シーズンではリーグ優勝を果たす。しかし、ワールドシリーズではオリオールズに4連敗してしまった。第2戦では後に殿堂入りする当時20歳のジム・パーマーとコーファックスが投げ合い、パーマーが勝利を収めている。そして、シーズン27勝をマークし、5年連続で最優秀防御率のタイトルを手にしていたコーファックスが左肘の関節炎を理由に30歳と若さでユニフォームを脱いでしまった。
一旦は低迷するが、1970年にオマリー会長の息子、ピーター・オマリーが新たに会長となり、再建に乗り出した。1973年頃には、ファーストのスティーブ・ガービー、セカンドのデービー・ロープス、サードのロン・セイ、ショートのビル・ラッセルで内野陣を形成。翌1974年には8年ぶりのリーグ優勝を飾ると、ワールドシリーズではアスレティックスと、初の西海岸ワールドシリーズを戦った(結果は1勝4敗でアスレティックスに敗れる)。
1975年、1976年とビッグレッドマシンと呼ばれたレッズの前に2位に終わってしまったドジャース。ここで、これまで23年に渡り監督を務めていたオルストンが退き、3塁コーチのトミー・ラソーダの監督への昇格を決めた。ラソーダの選手としての成績は0勝4敗というもので芳しくはなかったが、非常に明るい性格でチームを引っ張っていくことになる。そして、1977年から2年連続でリーグ優勝を果たす。特に1977年は、ガービー、セイ、レジー・スミス、ダスティ・ベイカーの4人が30HRを以上を記録し、メジャー史上初の30HRカルテットを形成。しかし、ワールドシリーズでは2年連続でヤンキースに敗れてしまう。
しかし1981年、ストライキによる変則前後期シーズンとなったメジャーリーグ。ドジャースはメキシコからやってきた左腕フェルナンド・バレンズエラの開幕8連勝という快進撃がチームを勢いづけた。そして、西地区前期で首位だったドジャースはポストシーズンを勝ち抜き、リーグ優勝を果たす。ヤンキースとのワールドシリーズでは2連敗後に4連勝し、世界一に輝いた。シリーズMVPには2HRを放ったペドロ・ゲレーロとスティーブ・イェーガーに、打率.350に6打点というセイの計3人が選ばれている。さらにバレンズエラはこの年、メジャー史上初となる新人王とサイヤング賞の同時受賞を決めている。
ドジャースが再び脚光を浴びたのは1988年のことである。FAで獲得したカーク・ギブソンが勝負強い打撃でMVPを獲得する活躍を見せ、投手陣では怪我で離脱したバレンズエラの穴を埋めるべく、オーレル・ハーシハイザーが59イニング連続無失点というメジャー記録を樹立する快進撃でリーグ優勝を飾った。しかし、リーグチャンピオンシップシリーズで主砲のギブソンが怪我をしてしまい、かろうじてワールドシリーズにコマを進めるも、ドジャースには暗雲が立ちこめていた。
迎えたアスレティックスのワールドシリーズ第1戦。アスレティックスが4対3でリードして迎えた9回裏、マウンドにはクローザーのデニス・エカーズリーが上がっていた。2アウトから四球で1人出塁したところで、試合に出場できないはずのギブソンが足を引きずりながら代打として登場。粘りに粘って、エカーズリーの7球目をライトスタンドにぶち込んだ。劇的な代打逆転サヨナラHRで第1戦に勝利したドジャースは、4勝1敗でこのシリーズを制している。
1992年はエリック・キャロス、1993年はマイク・ピアザ、1994年にはラウル・モンデシーがそれぞれ新人王を受賞。ストライキ明けの1995年には日本からやってきた野茂が新人王とオールスター先発という名誉を手にした。さらに1996年にはトッド・ホランズワースが新人王を獲得し、5年連続新人王を輩出するなど、組織の強さを見せたが、ワールドシリーズへの道は遠かった。
1996年途中にはラソーダもユニフォームを脱ぎ、さらに翌1997年にはオマリー会長が球団を売却という衝撃が球界を駆けめぐった。1998年にはピアザや野茂を放出することになった。さらに1999年開幕前にはケビン・ブラウンと1億ドルを越える大型契約を結ぶなど、寄せ集めのチームに変貌してしまう。名将デーブ・ジョンソンを招聘するも効果はなくポストシーズンは遠かった。
2002年、ブラウンの怪我による離脱はあったが、出戻りの野茂や石井、移籍のオダリス・ペレスの好投もあり、チームはシーズン終盤までジャイアンツとワイルドカードの座を懸けて戦った。ドジャースには再び球団売却の話が浮上しているが、2001年から監督に就任したジム・トレイシーの評判は良く、今後はかつてのオルストンやラソーダのように長期政権を築き、チームを何度も世界一導くことも可能である事を充分に感じさせてくれる。
(近日、大幅更新予定。。。)
<written by Kenji@webmaster>
ドジャース・各年度別成績一覧
ドジャース・球団名の変換史
- Los Angeles DODGERS (1958~現在)
- Brooklyn DODGERS (1932~1957)
- Brooklyn ROBINS (1914~1931)
- Brooklyn DODGERS (1905~1913)
- Brooklyn SUPERBAS (1899~1904)
- Brooklyn BRIDEGROOMS (1890~1898)
ドジャース・マイナー組織

