- 2008-05-23 (金) 0:18
ニューヨーク・ヤンキース
言わずとしれた名門として知られるニューヨーク・ヤンキース。アメリカンリーグ加盟時は弱かったが、1920年にベーブ・ルースを獲得してからは幾度もの黄金時代を築く。ニックネームは1913年にそれまでのハイライダーズから現在のヤンキースに変更された。1927年には当時のリーグ記録となる110勝を挙げるほどの強さを誇り、3番ルース、4番ルー・ゲーリッグと続く強力打線で黄金時代を築きあげた。初めて背番号が導入されたのもこの頃である。1949年からは史上初となる5年連続世界一に輝くなど無類の強さを誇った。一時低迷期を迎えるが、1973年にジョージ・スタインブレナーが球団を買収してからは、1977年、78年と2年連続世界一を勝ち取る。1998年にはプレーオフを含めて125勝という史上最多記録を樹立し、3年連続世界一となった。生え抜き選手の育成と大物選手の獲得で毎年の優勝候補でもある。
ヤンキース・球団データ
- 創立 /1901年ボルチモア→1903年ニューヨーク
- 世界一 /26回(1923, 1927, 1928, 1932, 1936, 1937, 1938, 1939, 1941, 1943, 1947, 1949, 1950, 1951, 1952, 1953, 1956, 1958, 1961, 1962, 1977, 1978, 1996, 1998, 1999, 2000)
- AL・リーグ優勝 /39回(1921, 1922, 1923, 1926, 1927, 1928, 1932, 1936, 1937, 1938, 1939, 1941, 1942, 1943, 1947, 1949, 1950, 1951, 1952, 1953, 1955, 1956, 1957, 1958, 1960, 1961, 1962, 1963, 1964, 1976, 1977, 1978, 1981, 1996, 1998, 1999, 2000, 2001, 2003)
- AL・東地区優勝 /16回(1976, 1977, 1978, 1980, 1981, 1994, 1996, 1998, 1999, 2000, 2001, 2002, 2003, 2004, 2005, 2006)
- AL・ワイルドカード /3回(1995, 1997, 2007)
- 本拠地 /ヤンキースタジアム (1977~) Yankee Stadium
ヤンキース・選手データ
| # | 投手 | # | 野手 | # | その他 |
|---|---|---|---|---|---|
| 40 | ワン・チェンミン(SP) | 25 | ジェイソン・ジオンビー(1B) | ※ | ブライアン・キャッシュマン(GM) |
| 46 | アンディ・ペティット(SP) | 24 | ロビンソン・カノ(2B) | 27 | ジョー・ジラーディ(Manager) |
| 35 | マイク・ムシーナ(SP) | 13 | アレックス・ロドリゲス(3B) | ||
| 34 | フィル・フューズ(SP) | 2 | デレク・ジーター(SS) | 45 | カール・パバーノ(SP) |
| 31 | イアン・ケネディ(SP) | 55 | 松井秀喜(LF) | 29 | 井川慶(SP) |
| 62 | ジョバ・チェンバレン(SP) | 18 | ジョニー・デーモン(LF) | 33 | ブライアン・ブルーニー(RP) |
| 48 | カイル・ファーンズワース(RP) | 28 | メルキー・キャブレラ(CF) | 17 | シェリー・ダンカン(1B) |
| 22 | ラトロイ・ホーキンス(RP) | 53 | ボブ・アブレウ(RF) | 14 | ウイルソン・ベテミット(3B) |
| 42 | マリアーノ・リベラ(RP) | 20 | ホルヘ・ポサダ(C) | 21 | モーガン・エインズバーグ(3B) |
- 1 ビリー・マーチン /Billy MARTIN(二塁手・監督)
- 3 ベーブ・ルース /Babe RUTH(外野手)
- 4 ルー・ゲーリッグ /Lou GEHRIG(一塁手)
- 5 ジョー・ディマジオ /Joe DiMAGGIO(外野手)
- 7 ミッキー・マントル /Mickey MANTLE(外野手・コーチ)
- 8 ビル・ディッキー /Bill DICKEY(捕手・コーチ・監督)
- 8 ヨギ・ベラ /Yogi BERRA(捕手・コーチ・監督)
- 9 ロジャー・マリス /Roger MARIS(外野手)
- 10 フィル・リズドー /Phil RIZZUTO(外野手)
- 15 サーマン・マンソン /Thurman MUNSON(捕手)
- 16 ホワイティ・フォード /Whitey FORD(投手・コーチ)
- 23 ドン・マッティングリー /Don MATTINGLY(一塁手・コーチ)
- 32 エルストン・ハワード /Elston HOWARD(捕手・コーチ)
- 37 ケーシー・ステンゲル /Casey STENGEL(監督)
- 42 ジャッキー・ロビンソン /Jackie ROBINSON(二塁手)☆全球団永久欠番
- 44 レジー・ジャクソン /Reggie JACKSON(外野手)
- 49 ロン・ギドリー /Ron GUIDRY(投手)
ヤンキース・球団史
現在のメジャーリーグで、最も栄光に満ちあふれている名門チームのニューヨーク・ヤンキース。20世紀中に世界一になった回数が26回を数えるなど、他に追随を許さない。数え切れないほどの名選手に名監督、名オーナーに彩られ、球団史を華々しく飾っている。栄光のピンストライブのユニフォームは、すでにヤンキースの代名詞と言っても過言ではないだろう。
大都市ニューヨークに本拠を構えるヤンキースも生まれた場所はニューヨークではなく、ボルチモアであった。そもそもボルチモアにプロのチームが誕生したのは、アメリカンアソシエーションが創立された1882年である。最初から弱いチームで、ずっと下位に低迷していた。このリーグは1891年限りで解散するが、その後は現存するナショナルリーグに加わり、オリオールズという愛称(今のオリオールズとは別)で呼ばれることになる。
機動力を生かすチームであり、1894年からは3年連続優勝も果たした。1899年からは後の名監督、ジョン・マグローが監督兼任選手となるが、1リーグ12球団だったナショナルリーグは、この年を最後に8球団に減らされることになる。そこでオリオールズは消滅の憂き目にあってしまい、チームは解散。1901年にアメリカンリーグが創立されると新たにボルチモアに球団を置くことになり、初代監督としてマグローが指名される。すると、旧オリオールズの主力選手が集まり、新生オリオールズとしてスタートを切ることになった。
しかし、1902年のシーズン途中にマグローとアメリカンリーグ会長のバン・ジョンソンが衝突してしまう。これにより7月にマグローはチームの主力選手5人を連れて、ナショナルリーグのジャイアンツへ移籍。ゴタゴタのあったオリオールズはこの年、リーグ最下位に終わっている。
そして、フランク・ファーレル、ビル・デブリーの2人がオリオールズのフランチャイズ権を買い取り、ニューヨークへの移転を決めた。1903年からニューヨーク・ハイランダーズという名で新しいスタートを切ることになる。ちなみにハイランダーズとは高地に住むスコットランド出身者のことを指すが、新本拠地としたヒルトップパークも高地に位置していた。
1904年にはシーズン終盤まで優勝を争うことがあったが、ほとんどは優勝とは無縁だったハイランダーズ。当時のニューヨークはマグロー率いるジャイアンツが栄華を誇っており、ハイランダーズとは比べものにならない強さに加え、観客動員数でもジャイアンツの方が上をいっていた。そして、1913年からジャイアンツの本拠地であるポログラウンズを共用させてもらうことになり、ここから愛称を正式にヤンキースと変えることになる。ピンストライブのユニフォームもこの頃から登場している。
流れが変わるきっかけは、1915年にビール会社を経営するジェイコブ・ルーパートが新オーナーとなったことである。ルーパートの買収額は46万ドルと言われている。当初はヤンキースという愛称をニッカーボッカーズに変えようとしたが、それはルーパートの会社の製品と同じ事からクレームが付き、結果的にはご破算となった。
チームを強くすることに積極的に取り組んだルーパートの最大の収穫は、1920年シーズン開幕前にレッドソックスからベーブ・ルースを12万5000ドルで獲得したことである。当時としては破格のこの値段も振り替えれば安すぎたと言わざるを得ない。当時のルースは球界を代表する左腕投手として、ワールドシリーズという大舞台でも実力を発揮していた。投げない日は野手としてプレーし、本塁打王も獲得するほどの打棒を見せていたルースに、野手として注目したのがヤンキースであった(ちなみにルースの生まれは、ヤンキースと同じボルチモアである)。
移籍1年目の1920年、54HRと137打点で二冠王を獲得したルース。それまでのメジャーリーグはバントやエンドランなど機動力を生かす攻撃がほとんどだった中で、HRをポンポンと打つルース見たさに観客動員は100万人を初めて突破し、ジャイアンツを上回ってしまった。ちょうど1919年のワールドシリーズで「ブラックソックス事件」と言われる八百長事件があるなど暗い話題が続く中、ルースの打棒はそれらを吹き飛ばすものであった。
1921年には59HR、171打点と2年連続で桁違いの数字を残したルース。チームのエースは下手投げのカール・メイズであり、前年にはインディアンズのレイ・チャップマンの頭に死球を当ててしまい、死亡させてしまう事件があったが、それを乗り越えて、この年は27勝をマークしている。こうしてヤンキースは球団史上初のリーグ優勝を果たすことになった。初めて出場したワールドシリーズでは、因縁あるジャイアンツと対戦。9回戦(5戦先勝)で行われたシリーズでは、ルースが怪我をするアクシデントもあり、3勝5敗で敗れてしまった。
1922年もリーグ優勝を果たしたヤンキース。ワールドシリーズではジャイアンツと再び戦うことになるが、マグローのルース対策は万全で、ルースはわずか2安打に抑え込まれてしまう。結果的には4敗1分けと1つも勝てずにこのシリーズを終える結果となってしまった。とはいえ、ルースのいるヤンキースは観客動員という面ではジャイアンツを上回っており、共用しているポログラウンズから出ていくようにとジャイアンツサイドからの通達もあったという。
そして、1923年からはそのポログラウンズから川を挟んだ場所にヤンキースタジアムを建設した。ルースの活躍と合致しているため、「ルースの建てた家」とも言われるヤンキースタジアムの誕生はヤンキース伝説の始まりを示すに充分なものといえるだろう。ヤンキースタジアムの初HRを打ったのはもちろんルースであることは言うまでもない。
新本拠地で迎えたこの年、圧倒的な強さでリーグ優勝を飾ったヤンキース。ルースは打率.393、41HR、131打点で初のMVPを獲得。ワールドシリーズではジャイアンツと3年連続で対戦したが、1勝2敗の後でヤンキースが3連勝し、初めて世界一の名誉を手にすることになる。このシリーズではルースは3本のHRを放った。まさにルースは、新しい時代の始まりの鐘を自らのバットで鳴らしたのである。
開幕前にルースが腹痛を訴えた1925年、腹部手術でルースが出遅れたため、ヤンキースはリーグ7位に転落。ルースの存在感を証明することになったが、この年の6月1日から一つの大記録が生まれることになる。その主人公はルー・ゲーリッグという21歳の若者だった。ファーストを守っていたウォーリー・ピップが頭痛を訴えた試合に代役出場したゲーリッグはそのまま試合に出場し続け、ピップに出番が回ることはなかったのである。
1926年、3年ぶりにリーグ優勝を飾ったヤンキース。カージナルスとの対戦になったが、3勝3敗で迎えた第7戦、2対3と1点リードされた場面で2アウト満塁のチャンスを掴む。打席にはトニー・ラゼリを迎えるが、ここで登板してきた39歳の大投手グローバー・アレキサンダーに三振に斬って取られ、チャンスを逃す。最終回2アウトからルースが四球で出塁するが、盗塁失敗であっさりと幕が引かれてしまった。
1927年のヤンキースは、シーズン110勝をマークする強さを見せた。ルースが60HRに164打点、ゲーリッグが47HRに175打点とそれぞれ打ちまくり、この年のチーム打率は.307と凄まじかった。この年のヤンキース打線は「マーダラーズ・ロウ(殺人打線)」と呼ばれ、相手チームから恐れられたという。パイレーツとのワールドシリーズでは打撃練習から圧倒し、蓋を開けてみれば4連勝であっさりと世界一を決めている。
1928年は、アスレティックスと激しい優勝争いがあったが、打棒爆発で3年連続リーグ優勝を決めている。ワールドシリーズでカージナルスと対戦し、あっさりと4連勝で2年前の雪辱を果たしたヤンキース。ゲーリッグは3試合連続HRを含む4HR、9打点と大当たりで、ルースも第4戦で1試合3HRを記録するなど、ヤンキースの強さばかりが目立ったシリーズであったといえる。
1929年、ヤンキースは背番号制を導入した最初のチームとなった。この年はシーズン中に監督のミラー・ハギンズが急死する不幸もあり、優勝は逃してしまった。ちょうどアスレティックスが黄金時代を迎えていたこともあり、しばらくは優勝から遠のいてしまう。1931年にはルースの年俸が、当時の大統領より多い8万ドルとなったことが大きな話題にもなっている。
1932年には連続試合出場を続けるゲーリッグが、メジャー初となる1試合4HRを記録する快挙を達成した。そして、4年ぶりにリーグ優勝を果たすと、ワールドシリーズではカブスを迎え撃った。リグレーフィールドで行われた第3戦、ルースは打席に入って外野席を指さし、予告HRを打ったということで話題になった(実際に予告HRだったか真偽はわからない)。この年はヤンキースの4連勝で世界一になっている。そして、ルースのワールドシリーズ出場はこの年が最後になっている。
1934年、チームは惜しくもリーグ2位に終わるが、ゲーリッグが打率.363、49HR、165打点という数字を残し、三冠王を獲得すれば、1931年のデビュー以来、ヤンキースの左のエースに成長していたレフティー・ゴメスは26勝5敗、防御率2.33と投手タイトルを独占する活躍を見せている。ちなみにこの年、22HRに終わったルースはこの年限りでヤンキースのユニフォームを脱ぐことになっている(正確には1935年シーズン開幕前に解雇通達を受け、その後はブレーブスで2ヶ月だけプレーしてから引退した)。
ジョー・ディマジオがヤンキースの歴史に名を現すのは1936年シーズンのことである。すでにマイナーで華々しい活躍を見せていたディマジオは1年目から打率.323をマークするなど、実力をいかんなく発揮した。この年は4年ぶりにリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズではジャイアンツと対戦。ルースのいないヤンキースとしての初めてのワールドシリーズだったが、ゲーリッグが2HRする働きを見せ、4勝2敗で世界一に返り咲いた。
1937年、ディマジオは打率.346、46HR、167打点とあわや三冠王という活躍で、本塁打王を獲得し、ヤンキースの中心打者に成長した。圧倒的な力でリーグ優勝を飾ると、ワールドシリーズでジャイアンツと再び対戦。第1戦でジャイアンツのエース、カール・ハッベルを攻略すると、そのまま4勝1敗で逃げ切った。1939年もヤンキースの強さは桁違いであり、ワールドシリーズではカブス相手に4連勝であっさりと退けている。
1939年、これまでヤンキースを支えていたゲーリッグの体に異変が起こった。筋萎縮性側索硬化症という不治の病いがゲーリッグの体を蝕んでいたのである。5月2日の試合に欠場し、ここまで続けていた連続試合出場を2130試合でストップさせた。ゲーリッグは「私は地上で最も幸せな男です」という言葉を最後にユニフォームを脱いだのである(その2年後にゲーリッグは死去)。ゲーリッグはいなくなったが、この年にMVPを受賞するディマジオを中心にリーグ優勝を飾ると、ワールドシリーズではレッズを4連勝で下し、4年連続世界一に輝いている。
1940年はリーグ3位に終わり、連続世界一は4年で止まってしまうが、ヤンキースの強さは本物であった。左のエースであるゴメスに加え、1936年から4年連続20勝以上を記録した右のエースのレッド・ラフィングが左右の両輪として構えていた。野手陣でも強打の捕手であるビル・ディッキーに加え、ルースの背番号3を引き継いだジョージ・セルカーク、セカンドの守備も抜群だったジョー・ゴードンとタレントは揃っていた。
フィル・リズドーがデビューした1941年、ディマジオが56試合連続ヒットというメジャー記録を樹立し、全米中の話題をさらった。テッド・ウイリアムスが打率4割に挑戦することもあったが、この年のMVPはディマジオに輝いている。9月4日に最速でリーグ優勝を決めたヤンキースは、ワールドシリーズで同じニューヨークに本拠を構えていたドジャースと初対戦。2勝1敗で迎えた第4戦、3対4と1点リードされて迎えた最終回、ドジャース捕手のミッキー・オーウェンがパスボールで出塁を許してしまうと、ここからヤンキース打線が爆発して逆転。この勢いに乗り、4勝1敗で世界一となった。
戦争の色が濃くなってきた1942年、三冠王を取ったウイリアムスを差し置いて21票差でゴードンがMVPに輝くこともあった。リーグ優勝したこの年、スタン・ミュージアルを中心とするカージナルスと対戦し、1勝4敗で敗れてしまう。翌1943年、ディマジオやリズドーらを兵役で欠きながらもリーグ優勝を果たしたヤンキースは、カージナルス相手に4勝1敗で前年の雪辱を果たしている。
1931年からヤンキースの監督を務め、8度のリーグ優勝と7度の世界一に導いたジョー・マッカーシー監督が1946年途中に監督を退いた。ディマジオを始めとする実力のある選手に恵まれた点はあるが、要所要所で確実な手を打ち、ベテランから若手への切り替えを見事に成功させた点の評価は非常に高い。また、力のある投手を専門的にリリーフとして使う戦術も、当時としては斬新なものであった(当時は先発投手がリリーフも兼ねていた)。
バッキー・ハリスを後任監督に据えたヤンキースだが、1947年にリーグ優勝を果たす。ワールドシリーズではジャッキー・ロビンソンを加入させたドジャースと対戦。第7戦までもつれ込んだ結果、4勝3敗でヤンキースが勝利している。翌1948年、ヤンキースタジアム25周年の祭典に背番号3のユニフォームを着たルースが登場。そして、その2ヶ月後、ルースは53歳という若さで息を引き取った。
1949年、ヤンキースの新監督として発表されたのはケーシー・ステンゲルだった。ステンゲルはブレーブスとドジャースで監督経験があるが、決して華々しいものではなく、多くのファンはステンゲル就任に驚いたのである。その就任1年目、怪我でディマジオがシーズンの大半に出られないという状況の中で、レッドソックスと激しい首位争いを演じた。シーズン最後の直接対決2連戦で連勝してリーグ優勝を決めるという壮絶な戦いを見せたヤンキース。ワールドシリーズでは再度ドジャースと戦い、4勝1敗で振り切って世界一となっている。
1949年からヤンキースは前人未踏の5年連続世界一という大偉業を達成した。ディマジオは1951年限りで現役を退くが、1950年には後の大エース、ホワイティ・フォードがメジャー昇格し、翌1951年にはスイッチヒッターのミッキー・マントルがデビューし、世代交代がうまく進んだと言える。ワールドシリーズでは1951年にジャイアンツ、1952年と1953年にはドジャースとそれぞれ戦っているがいずれを勝利を収めるなど、まさにヤンキースは黄金時代の真っ只中にいた。
1954年のヤンキースはシーズン103勝をマークするが、インディアンズが111勝という快進撃を見せたこともあり、リーグ2位に終わってしまった。首位奪還を懸けて臨んだ翌1955年のシーズンは、インディアンズ、ホワイトソックスと終盤まで激しい首位争いを繰り広げる。
8月末は連日のように首位が入れ替わる展開となる中、シーズン終盤に8連勝を見せたヤンキースがかろうじてシーズン優勝を果たした。成長著しいマントルが怪我をするアクシデントはあったが、チームの主力であるヨギ・ベラの活躍が光った。ちなみにベラは前年に続きMVPを受賞し、自身3度目のMVP受賞となっている。ワールドシリーズではドジャースと戦うが、マントルの欠場が響き、3勝4敗で敗れてしまう。
1956年はマントルが、打率.353、52HR、130打点という好成績で三冠王を獲得。ワールドシリーズでは2年連続でドジャースとの対戦となった。第1戦でエースのフォードがKOされ、第2戦でもドン・ラーセンがKOされて2連敗という苦しいスタート。その後、連勝して2勝2敗で迎えた第5戦、先発のラーセンがメジャー史上初となるワールドシリーズでの完全試合を達成した。結果的に4勝3敗でヤンキースが勝利を収め、世界一の座に返り咲いている。
1957年、リーグ優勝したヤンキースはワールドシリーズでミルウォーキーに本拠を構えていたブレーブスと対戦し、3勝4敗で敗れるが、翌1958年、再びワールドシリーズでブレーブスと対戦すると、1勝3敗と追い込まれたところから3連勝で世界一となる。この年、シーズン21勝でサイヤング賞を手にしているボブ・ターリーがワールドシリーズでも2勝(1敗)をマークし、シリーズMVPに輝いている。
1960年、ヤンキースはアスレティックスからロジャー・マリスを獲得した。マントルは40HRで本塁打王を獲得すれば、マリスは1本差の39HRという猛打を見せて、MM砲を結成。2年ぶりにリーグ優勝を飾ると、ワールドシリーズでは33年ぶりの出場となるパイレーツを迎え撃った。戦前はヤンキース有利が圧倒的だったが、パイレーツは粘りに粘り、勝負は第7戦までもつれる。第7戦では点を取っては取り返す展開となった。そして、9対9で迎えた9回裏、ビル・マゼロスキーに劇的なサヨナラHRを打たれてしまい、ヤンキースは敗れてしまった。
このシリーズは第6戦で完封勝利を記録しているフォードを、第7戦の最終回という場面で起用しなかったのか、という点に批判は集まった。ステンゲル監督にしてはフォードの将来を考えて起用しなかったということが事実のことではあるが、これが原因でステンゲルは辞任。在任12年間でチームを10回のリーグ優勝、7回の世界一に導いた名将はピンストライブのユニフォームを脱いだのである。
後任監督としてラルフ・ハウクを迎え、1961年のヤンキースは新しく生まれ変わろうとしていた。この年はメジャー史上初となるエクスパンションが行われ、リーグ10球団となり、試合数も154試合から162試合に増加するという変化もあった。開幕当初はもたついたヤンキースも徐々に調子を取り戻していく。この年の話題はMM砲の驚異的なHRペースであり、1927年にルースが記録したシーズン60HRという記録を塗り替えるかに注目が集まった。
開幕11試合ですでに7HRしていたマントルに対して、マリスは開幕11試合目にして第1号HRという有様だった。しかし、5月に11HRしたマリスは6月に入ってすぐにマントルに追いつく。その後も抜きつ抜かれつのデッドヒートを繰り広げた2人だが、コミッショナー通達が出たのは7月18日の事である。この時点で2人とも、35HRしており、162試合に換算すると64HRとなるわけだが、ルースの記録は154試合制の時のものであり、154試合までに61本目が出なければ正式な記録としては認めないという通達である。
2人の周囲は徐々に記録更新はヤンキース生え抜きのマントルこそ相応しく、移籍組のマリスへの風当たりが強くなっていく。そんな中の9月10日に肺炎で2週間の欠場を余儀なくされ、この時点で記録更新の可能性はマリスのみが持つことになった。
マリスに60本目が飛び出したのは159試合目のことで、運命の61本目はシーズン最終戦に飛び出し、通達を跳ね返すことは出来なかった(それ以後、マリスの記録は「61*」と注意書きされることになり、マリスが1985年に死去して、その6年後の1991年に正式なメジャー記録となったのである)。
61HR、142打点で二冠王にMVPも受賞したマリスに54HRのマントルという打の軸に、エースのフォードは25勝でサイヤング賞を受賞する活躍で、ハウク新監督の就任1年目でリーグ優勝を果たしたヤンキースは、ワールドシリーズでもレッズを4勝1敗で振り切り、世界一になっている。翌1962年もリーグ優勝し、ワールドシリーズではサンフランシスコに移転したジャイアンツと対戦。4勝3敗でヤンキースが勝利を収める中、エースのフォードが3年かがりでワールドシリーズ記録となる33回1/3連続イニング無失点記録を樹立した。
1963年、MM砲は共に不調だったが、フォードが24勝、ジム・バウトンが21勝をマークする好調ぶりでチームにリーグ優勝をもたらした。この年のMVPは地味ながらチームを捕手として引っ張ったエルストン・ハワードが受賞している。ハワードはヤンキース初の黒人選手として1955年にデビューし、1960年にはベラを押しのけて正捕手に居座っている選手である。しかし、ワールドシリーズではロサンゼルス移転後のドジャースと対戦し、あっさり4連敗で終わってしまった。
1964年は監督だったハウクをGMに据え、兼任コーチだった人気者のベラを監督に据えた。ベラには監督不適任との声が強かったが、オリオールズ、ホワイトソックスとの三つ巴の争いを制して、5年連続となるリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズではボブ・ギブソンを擁するカージナルスと対戦し、3勝4敗で敗れてしまう。オフには監督ベラが解任され、ワールドシリーズでカージナルスを率いていたジョニー・キーンを新監督として引き抜いた。さらにはヤンキースがCBSに売却されるなど、ヤンキースにとっては分岐点となる1年となったのである。
ここまでの16年間で14度のリーグ優勝を果たしていたヤンキースにとって、1965年以降は長い冬の時代となった。各球団が黒人選手の登用など変革が進む中で、ヤンキースはこれまで通りの路線を続け、なかなか黒人の登用などをためらっていた。これを名門としての驕りと見る節もあり、その通りにヤンキースは時代に乗り遅れたのである。キーンは1966年シーズン途中に解任され、再びハウクが監督に戻るが、この年は最下位(10位)に終わってしまうなど、ヤンキース帝国の凋落は見るも無惨なものとなっていた。
ヤンキースを買収したCBSの目的は名門ヤンキースのブランドであって、それ以外に関してはさほど興味を持っていたわけではなかった。下位に低迷していたヤンキースに希望の光が灯ったのは1973年のこと、ジョージ・スタインブレナーを中心とするグループがヤンキースを買い取ったのである。
1973年には長打力もあり、サードの守備も鉄壁なグレイグ・ネトルスをインディアンズから獲得し、1975年には前年にアスレティックスで25勝をマークしていたキャットフィッシュ・ハンターが契約問題でこじれているのを見ると、ヤンキースがハンターに5年間375万ドルという契約を提示し、当時としてはかなりの高額で契約を交わすに至る。
1974年からの2年間、新しいヤンキースタジアム新築のため、同じニューヨークに本拠を構えていたメッツの本拠地シェイスタジアムを借りていたのである。そして、1975年シーズンの途中から、かつてヤンキースのセカンドを守っていたビリー・マーチンが監督としてヤンキースに復帰する。改装されたヤンキースタジアムで始まった1976年、ヤンキースは久々にリーグ優勝を果たしたものの、ワールドシリーズでは「ビッグレッドマシン」として全盛期を迎えていたレッズと対戦し、1勝も挙げられず、4連敗で終わっている。
ヤンキースは導入されたばかりのFA制度を活用し、名門復活に動き出した。一番の大物は、非常に個性的で知られるレジー・ジャクソンであり、契約内容は5年間で300万ドルというものである。当然、サーマン・マンソンのようにヤンキース生え抜き選手の選手から見れば決して面白いものではなく、監督のマーチンともいずれは衝突するだろうと言われていたのである。
1977年、ジャクソンはチームリーダーであるマンソンを批判し、チームメイトからの反発を招く。全米に中継されている試合で、散漫なプレーをしたジャクソンを途中交代させると、そのまま監督のマーチンに向かい、一触即発という場面もあった。まさにこの年のヤンキースは個性と個性がぶつかる混沌としたチームであり、そんなチームの指揮をマーチンは執っていたのである。
最初はかろうじて優勝争いに残っている状態だったが、元々は実力のある選手の集まりであるため、歯車が噛み合い出すと白星を重ね、最終的にはオリオールズ、レッドソックスを振り切って地区優勝を果たした。ロイヤルズとのリーグチャンピオンシップシリーズではこの年、リリーフエースとしてサイヤング賞を受賞するスパーキー・ライルの活躍が光った。2勝2敗で迎えた第5戦の最終回に逆転勝ちしてリーグ優勝を決めるなど、名門復活を感じさせる勝ちっぷりである。
ドジャースを迎えて戦ったワールドシリーズでは、3勝2敗と王手をかけて臨んだ第6戦でジャクソンは伝説になった。実に3打席連続HRを放ち、ヤンキースに1962年以来の世界一をもたらしたのである。ジャクソンは第5戦の最終打席でもHRを放っていることから、4打数連続HRを記録していることになり、そのいずれも初球を打ったものである。ジャクソンはこのシリーズでの活躍から、「ミスターオクトーバー」の称号を手にすることになる。
1978年、開幕前にリッチ・ゴセージを獲得し、ライルに代わるリリーフエースとして起用。この年はレッドソックスが開幕から飛び出し、ヤンキースとは10.5ゲームもの差をつけていた。シーズン中にはマーチン監督が解任され、ボブ・レモンが新監督として就任するなど紆余曲折はあったが、エースのロン・ギドリーが25勝3敗の防御率1.74という好成績を残し、この年のサイヤング賞を受賞する活躍もあり、シーズン終了時でヤンキースとレッドソックスが同率で並んだ。
レッドソックスとのワンゲームプレーオフではバッキー・デントとジャクソンのHRでリードを奪い、最後はゴセージが締めくくり、大逆転での地区優勝を果たしたヤンキース。リーグチャンピオンシップシリーズでは3年連続でロイヤルズと対戦。第3戦ではロイヤルズの主砲であるジョージ・ブレットに1試合3HRされるが、そのいずれもがソロであり、ヤンキースにとってはこれが幸いした。結局、3勝1敗で勝利を収め、3年連続でワールドシリーズ進出を決めた。ワールドシリーズでも2年連続でドジャースと対戦し、2連敗後に4連勝し、2連覇を達成した。
1979年にはシーズン中にマンソンが飛行機事故で命を落とす不幸があった。まだ32歳と若かったマンソンは、そのままプレーをし続ければ殿堂入りも充分に可能と言われていた選手だけに、突然の訃報にチームメイトもファンも悲しみに暮れた。この年のヤンキースは地区4位に終わり、翌1980年も地区優勝を果たすが、リーグチャンピオンシップシリーズでロイヤルズに3連敗し、シーズンを終えている。
1981年にはFAでデーブ・ウインフィールドを獲得。ストライキにより前後期となる変則シーズンとなった中、ヤンキースは前期優勝を果たし、ポストシーズンもそのまま勝ち抜いた。ドジャースとのワールドシリーズでは2連勝後に4連敗してしまい世界一を逃した。そしてこの年を最後にヤンキースはワールドシリーズから遠のくことになる。
1983年にはチームのエース格となっていた左腕デーブ・リゲッティが、独立記念日の対レッドソックス戦でノーヒッターを達成した(リゲッティは翌年以降からリリーフに転向し、そこで大成功を収めている)。1984年にはドン・マッティングリーとウインフィールドの首位打者争いは、シーズン最終戦までもつれる熾烈さを極めた(最終的にはマッティングリーが打率.343で、打率.340のウインフィールドに勝利を収めている)。
1980年代のヤンキースを語る上でマッティングリーの存在を抜くことは出来ない存在感を見せた。リッキー・ヘンダーソンが加わった1985年にはマッティングリーはMVPを受賞。1987年のマッティングリーもメジャータイ記録となる8試合連続HRを達成し、さらにメジャー新記録となるシーズン6本の満塁HRも放つ勝負強さを見せている。しかし、ヤンキースは優勝と無縁であり、ずっと下位に低迷した。
1994年、地区首位を守りながらもストライキで中断されてしまう不運があった。初めて3地区制となった翌1995年、地区2位ながらワイルドカードとしてポストシーズンに出場。マリナーズとのディビジョンシリーズでは2連勝後に3連敗し、勝ち進むことは出来なかった。この年限りでマッティングリーは現役を引退。チームを4年間率いてきたバック・ショーウォルター監督もこの年限りでユニフォームを脱いでいる。
そして、ジョー・トーレを新監督として迎えた1996年、ヤンキースは久々に地区優勝を果たした。デレク・ジーターがこの年に新人王を獲得するなど、新しい時代を迎えようとしていた。ポストシーズンも勝ち抜き、ワールドシリーズでは前年の世界一チームであるブレーブスと対戦した。2連敗した後に迎えた第3戦では先発デビッド・コーンの快投とバーニー・ウイリアムスのHRで勝利を収めると、第4戦では終盤にジム・レイリッツの同点となる3ランHRが飛び出し、延長戦の末に勝利をもぎ取った。第6戦ではグレッグ・マダックスを攻略し、結果的に2連敗後の4連勝でヤンキースは1978年以来となる世界一を奪還した。
1998年2月には、ブライアン・キャッシュマンが30歳という若さでヤンキースのGMに抜擢。キャッシュマンはツインズからチャック・ノブロックを獲得し、キューバを亡命してきたオルランド・ヘルナンデスを獲得するなど、積極的に動いた。この年のヤンキースは独走し、9がつに入るなり優勝を決め、当時のリーグ記録となるシーズン114勝をマーク。5月17日にはデビッド・ウェルズが完全試合を達成している。ポストシーズンではレンジャーズ、インディアンズを蹴散らし、パドレスとのワールドシリーズは4連勝で世界一を決めた。
1999年開幕前にはロジャー・クレメンスを獲得し、補強も万全だったヤンキース。5月に往年のディマジオが死去する不幸があったが、シーズンは順調に勝ち進んだ。7月18日にはかつてワールドシリーズで完全試合を達成したラーセンが始球式を務め、その球をベラが受けるという特別な日にヤンキースの先発のマウンドに立ったコーンが完全試合を記録。ワールドシリーズでは1990年代最強チームと言われたブレーブスと対戦するが、4連勝で寄せつることはなかった。
2000年もリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズではメッツと対戦。「サブウェイシリーズ」として大きな注目を浴びたが、ヤンキースが4勝1敗でメッツを退けている。これでヤンキースは実に3連覇を達成し、26回目の世界一となった。この3連覇中、クローザーのマリアーノ・リベラはポストシーズンで1度も黒星を喫したことがなく、強いヤンキースの象徴というような存在となっていた。
マイク・ムシーナを加えた2001年のヤンキースも順調に勝ち進んだが、ワールドシリーズでは創立4年目の新興チームであるダイヤモンドバックス相手に3勝4敗で敗れてしまい、4連覇は逃してしまう。翌2002年はFAで大物のジェイソン・ジオンビーの加入と話題が集まる中、ディビジョンシリーズでエンゼルスの前に敗れ去ってしまった。
世界一奪回を目指すヤンキースは2003年シーズン前に日本の主砲である松井秀喜とキューバのエースであるホゼ・コントレラスを獲得。台頭著しいアルフォンゾ・ソリアーノらと共に世代交代がうまくいけば、さらなる黄金時代の到来は可能と言えるだろう。
(近日、大幅更新予定。。。)
<written by Kenji@webmaster>
ヤンキース・各年度別成績一覧
ヤンキース・球団名の変換史
- New York YANKEES (1913~現在)
- New York HIGHLANDERS (1903~1912)
- Baltimore ORIOLES (1901~1902)
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