- 2008-05-23 (金) 0:16
サンフランシスコ・ジャイアンツ
1883年にナショナルリーグに加盟し、ニューヨークに本拠地を構えていた。1902年に監督就任したジョン・マグロー監督が指揮を取った31年間で10回のリーグ優勝、3度のワールドシリーズ制覇を果たす。1958年に経営不振のため、西海岸に移転を決定。1964年には初の日本人メジャーリーガーとして村上雅則投手と契約している。長い低迷期を経て1987年に16年ぶりの地区優勝。1989年にはリーグ優勝を果たすが、世界一には届かず。2002年にも主砲バリー・ボンズを擁してワールドシリーズに進出するが、サンフランシスコ移転後初の世界一は果たせなかった。
ジャイアンツ・球団データ
- 創立 /1883年ニューヨーク→1958年サンフランシスコ
- 世界一 /5回(1905, 1921, 1922, 1933, 1954)
- NL・リーグ優勝 /18回(1904, 1905, 1911, 1912, 1913, 1917, 1921, 1922, 1923, 1924, 1933, 1936, 1937, 1951, 1954, 1962, 1989, 2002)
- NL・西地区優勝 /6回(1971, 1987, 1989, 1997, 2000, 2003)
- NL・ワイルドカード /1回(2002)
- 本拠地 /AT&Tパーク (2000~) AT&T Park
ジャイアンツ・選手データ
| # | 投手 | # | 野手 | # | その他 |
|---|---|---|---|---|---|
| 75 | バリー・ジート(SP) | 40 | ダン・オートメイヤー(1B) | ※ | ブライアン・サビーン(GM) |
| 18 | マット・ケイン(SP) | 5 | レイ・デューラム(2B) | 15 | ブルース・ボウチー(Manager) |
| 55 | ティム・リンスカム(SP) | 35 | リッチ・オーリリア(3B) | ||
| 53 | ジョナサン・サンチェス(RP) | 13 | オマー・ビスケル(SS) | 51 | ノア・ロウリー(SP) |
| 32 | ケビン・コレイア(SP) | 10 | デーブ・ロバーツ(LF) | 41 | ブラッド・ヘネシー(RP) |
| 45 | テイラー・ウォーカー(RP) | 33 | アーロン・ロワンド(CF) | 34 | スティーブ・ケーライン(RP) |
| 37 | ジャック・タシュナー(RP) | 2 | ランディ・ウイン(RF) | 31 | ビニー・チャーク(RP) |
| 38 | ブライアン・ウイルソン(RP) | 1 | ベンジー・モリーナ(C) | 57 | ユーゲニオ・ベレス(SS) |
| 28 | ラジェイ・デービス(CF) |
- * クリスティー・マシューソン /Christy MATHEWSON(投手・コーチ)
- * ジョン・マグロー /John McGRAW(三塁手・監督)
- 3 ビル・テリー /Bill TERRY(一塁手・監督)
- 4 メル・オット /Mel OTT(外野手・監督)
- 11 カール・ハッベル /Carl HUBBELL(投手)
- 24 ウイリー・メイズ /Willie MAYS(外野手)
- 27 ホアン・マリシャル /Juan MARICHAL(投手)
- 30 オーランド・セペダ /Orlando CEPEDA(一塁手)
- 36 ゲイロード・ペリー /Gaylord PERRY(投手)
- 42 ジャッキー・ロビンソン /Jackie ROBINSON(二塁手)☆全球団永久欠番
- 44 ウイリー・マッコビー /Willie McCOVEY(外野手)
ジャイアンツ・球団史
メジャーリーグでも指折り数える名門球団であるサンフランシスコ・ジャイアンツ。かつてはニューヨークに本拠を構え、20世紀初頭は黄金時代を築き上げたものの、その後は優勝から長く遠のく時期もあった。2000年には新球場パシフィックベルパークが誕生。2002年には久々にリーグ優勝を果たし、サンフランシスコに歓喜をもたらした。
ジャイアンツが産声をあげたのはニューヨークである。1876年に創立していたナショナルリーグに加盟したのは1883年のことである。創立初年度は46勝50敗という成績でリーグ5位に終わっている。当時の愛称はゴッサムズといい、ジャイアンツと呼ばれるようになるのは1885年頃からである。
1885年のジャイアンツは85勝27敗という驚異的な勝率を残すが、ホワイトストッキングス(現在のカブス)にわずか2ゲーム差のリーグ2位に終わっている。ちなみにこの年は、ティム・キーフとミッキー・ウェルチという2人の投手で計76勝をあげており、さらに強打のサードベースマンであるロジャー・コナーもいた。コナーは19世紀を代表するスラッガーであり、コナーの記録した通算138HRは、後にベーブ・ルースに抜かれるまでのメジャーでの通算HR記録である。
初優勝を果たしたのは1888年のことで、エースのキーフは19連勝を含む35勝12敗という成績を残してチームを引っ張った。シーズン後にはアメリカンアソシエーションの優勝チームであるセントルイス・ブラウンズと10試合を戦い、6勝4敗で勝ち越しており、事実上の世界一チームに輝いている。その翌1889年も優勝を飾るが、その後は選手の流出もあり、しばらくは優勝とは縁がなくなる。
そんなジャイアンツに変化が訪れたのは、1902年シーズン途中にジョン・マグローを監督として迎えてからである。マグローは元々ボルティモアにある球団の名サードとして知られる選手であり、アメリカンリーグが1901年に新設されるとそのボルチモア・オリオールズ(現在のヤンキース)に監督兼任選手として迎えられる。しかし、アメリカンリーグ会長のバン・ジョンソンと対立し、ナショナルリーグのジャイアンツへ身を移すこととなったのである。
移ったのはマグローだけでなく、オリオールズの主力選手数人もジャイアンツへ移籍しており、まさしくオリオールズは骨抜きの状態になった。マグローが途中から指揮を執った1902年こそは最下位に終わってしまうが、わずかな期間ではあるが充分な存在感は残した。しかし、オフになるとアメリカンリーグはボルチモアのオリオールズをニューヨークに移し、ハイランダーズとして再スタートを切らせたこともマグローの怒りをより高めさせる原因となった。
1903年にはリーグ2位にまで躍進したジャイアンツ。中心となったのはマグローと共にジャイアンツ入りしたジョー・マギニティであり、この年は実に31勝20敗という成績を残し、さらに若きエースに成長していたクリスティー・マシューソンも30勝13敗という成績を残しており、2人の30勝投手を輩出しているのである。
1904年は開幕からマギニティとマシューソンという2人が快調に勝ち続け、ジャイアンツは早い段階で優勝を決定づけた。さらにこの年はアメリカンリーグでもハイランダーズが首位を走っていることもあり、初めてのニューヨーク対決が行われるのではないかと周囲は期待を持った。しかし、順調に勝ち続け、シーズン106勝で優勝を果たしたジャイアンツに対して、ハイランダーズは終盤の自滅で優勝を逃してしまった。
ちょうど前年に第1回ワールドシリーズとしてパイレーツとピルグリムス(現在のレッドソックス)が戦っており、この年も当然のように行われると思われたが、アメリカンリーグに憎悪を持つマグローはこの対戦を拒否。これにはオーナーのジョン・ブラッシュも支持した。結果的にこの年のワールドシリーズは行われなかった。しかし、周囲の反発があまりにも大きく、考えを改めたブラッシュが両リーグ間の調整に動き、ワールドシリーズ開催への詳細が決められていったのである。
1905年、エースのマシューソンは6月13日の対カブス戦において、カブスのエースのモデカイ・ブラウンと投げ合い、自身2度目のノーヒッターを達成(第1回は1901年に達成している)。この年もマシューソンは31勝9敗という数字を残し、チームもシーズン105勝をマークする活躍で2年連続のリーグ優勝を果たした。そして、オフにはフィラデルフィアに本拠を構えていたアスレティックスと対戦することになる。
コニー・マック率いるアスレティックスとの対戦に対して、ジャイアンツは全身黒ずくめの特別ユニフォームでワールドシリーズに臨んだ。そして、マシューソンが第1戦と第3戦に完封勝利を収め、第4戦ではマギニティも完封してあっという間に王手を懸ける。ここでジャイアンツは中1日でマシューソンを先発され、見事に完封勝利で期待に応えた。実にマシューソンの3完封という活躍でジャイアンツは晴れて世界一となった。アスレティックスとしてはルーブ・ワッデルを欠いているというマイナスはあったが、それをも上回る投手力でジャイアンツは世界一となったのである。
1908年はシーズン終盤までカブス、パイレーツと三つ巴の激しい首位争いを演じたジャイアンツ。9月23日の対カブス戦で最終回に2アウト1塁3塁とサヨナラのチャンスを掴むと、アル・ブライドウェルがセンター前に運び、サヨナラ勝ちと思われたが、1塁ランナーのフレッド・マークルが2塁を踏まずにベンチに戻ったことから、カブスのアピールによりマークルのアウトが宣告され、サヨナラ勝ちは取り消されてしまった。
するとシーズンが終わった段階でジャイアンツはカブスと同率で並び、ワンゲームプレーオフが行われることになったのである。そして、この試合に敗れたジャイアンツは優勝を逃してしまった。仮にマークルが2塁を踏んでいればジャイアンツは優勝していたはずで、それ故にこのボーンヘッドはジャイアンツにとっては非常に痛かった。
1911年、ジャイアンツの本拠地球場であるポログラウンズが火事に遭い、6月まではハイランダーズの本拠地ヒルトップパークを借りてプレーしていた。そのような状況の中、チームは順調に勝ち進み、1905年ぶりのリーグ優勝を果たした。そして、対戦相手は6年前と同じアスレティックスだった。
ジャイアンツの柱はこの年28勝のマシューソンであり、ずっと伸び悩んでいたルーブ・マークォードも突然24勝を挙げる活躍を見せた。しかし、ワールドシリーズではフランク・ベイカーの打棒の前にマシューソンもマークォードも打ち込まれてしまい、2勝4敗で敗れてしまい、アスレティックスに雪辱を果たされてしまう。
1912年、マークォードは開幕から19連勝をマークし、前年から数えて21連勝を記録した。そして、シーズン103勝でリーグ優勝を飾り、ワールドシリーズでは1904年に対戦を断ったレッドソックスと対戦することになった。1勝3敗1分けと追いつめられた後に2連勝してタイとするが、最終第8戦で延長10回の末に敗れてしまい、2年連続で世界一を逃してしまった。
1913年も圧倒的な強さで3年連続リーグ優勝を果たすものの、ワールドシリーズではアスレティックスの前に1勝4敗で敗れてしまい、3年連続でチャンスを逸した。さらに翌1914年も開幕序盤は首位を守るが、下位が当たり前だったブレーブスが「ミラクルブレーブス」と呼ばれる快進撃を見せ、リーグ優勝すら逃してしまった。この頃からエースのマシューソンにも衰えが見え始め、1915年にはリーグ最下位にまで落ちてしまった。
世代交代を進めたジャイアンツは1917年に復活の優勝を飾るが、ワールドシリーズではホワイトソックスの前に2勝4敗で涙を飲んでしまう。その後、3年連続でリーグ2位に終わるが、1921年には待望のリーグ優勝を飾ったジャイアンツ。ちょうどこの頃、ベーブ・ルースがヤンキース入りしており、その長打力で多くのファンを引きつけていたのである。
ジャイアンツの本拠地ポログラウンズは1913年からヤンキースと共用で使っており、当然ジャイアンツの方が多くの観客を集めていた。しかし、ルースがヤンキースに入団してからは、そのHR見たさにヤンキースの方が観客動員を集めるようになる。しかし、19世紀からの野球を肌で知るマグローにとってはHRを中心とする野球は認めることが出来なかった。
そのジャイアンツとルースを擁するヤンキースがワールドシリーズで対決するのは1921年のことである。ポログラウンズを舞台に、初めて行われたニューヨーク対決では、ジャイアンツは2連敗スタートとなるが、第3戦では0対4の劣勢から逆転勝ちを収めると、その勢いで勝ち進み、5勝3敗で16年ぶりの世界一の座に輝いた。注目されたルースとの対決においてマグローが指示したのは四球攻めで、これによりペースを崩したルースは故障も重なり、本来の力を発揮できなかった。
1922年もこの両チームの対戦となったワールドシリーズ。大型補強したヤンキースを相手にジャイアンツは4勝1分けと圧倒的な強さを見せた。チームリーダーのフランキー・フリッシュが打率.471をマークすれば、ハイニー・グローも打率.474をマークするなど、勝負強い打撃が目立った。ジャイアンツ投手陣もルースもわずか2安打に抑え込んでいる。
しかし、ファンが見たいのはルースのHRであった。同じポログラウンズを本拠地としても、100万人を越える観客動員を誇るヤンキースに対して、ジャイアンツは100万人に満たない状態であった。そして、ジャイアンツ側の要望もあり、ヤンキースはこの年を最後にポログラウンズを離れ、翌年からは出来たばかりのヤンキースタジアムへ本拠を移すこととなったのである。
1923年、ジャイアンツとヤンキースは三度ワールドシリーズでの相まみえることになった。「ルースの建てた家」とも言われるヤンキースタジアムを本拠地としたヤンキースを相手に、ジャイアンツは2勝4敗で敗れてしまう。このシリーズでルースの打ったHRは3本を数えるなどヤンキース打線の集中打が目立ったシリーズでもあった。こうしてマグローは、ついにヤンキースに土を付けられたのである。
1924年もリーグ優勝を果たしたジャイアンツは大投手であるウォルター・ジョンソンを擁するセネタース(現在のツインズ)と対戦。非常に競り合ったシリーズとなり、3勝3敗で迎えた第7戦は3対3のまま延長戦に突入する。そして、延長12回裏に迎えた大ピンチでイレギュラーバウンドの当たりがサヨナラ打となる不運で、ジャイアンツは2年連続で世界一を逃してしまった。
それ以降のジャイアンツは優勝とは縁遠くなり、同じニューヨークを本拠に構えていたヤンキースは黄金時代を迎えるなど、対照的なチームとなった。1927年にはマグローと衝突したフリッシュをロジャース・ホーンスビーとの交換でカージナルスへ放出するという出来事もあった。この頃からメジャーに定着することになるビル・テリーも、1930年には打率.401で首位打者となる打撃を見せるが、マグローとはそりが合わなかったのである。
そんな中、そのマグローに見出されたカール・ハッベルは、得意のスクリューボールを武器にジャイアンツのエースのみならず、球界全体のエースへの階段を昇っており、さらに1926年に17歳という若さでデビューしたメル・オットも独特な一本足打法でその地位を固めていった。そして、1932年シーズン途中にマグローは監督の座を退くことになったのである。実に30年間のジャイアンツ監督生活にピリオドを打ったわけだが、その後任監督となったのは犬猿の仲のテリーであった。
迎えた1933年、エースのハッベルは46回1/3イニング連続無失点記録に加え、23勝12敗、防御率1.66と桁違いの数字を残すなどMVPを受賞する活躍で、ジャイアンツは久々にリーグ優勝を飾った。セネタースとのワールドシリーズではハッベルが2勝を挙げる活躍を見せれば、オットも打率.389、2HRという猛打を見せて4勝1敗で世界一に輝いた。ジャイアンツとしては初めてとなるマグロー無しのシリーズを制したことになる。
ちなみにこの年、初めてオールスターゲームが行われることになるが、そのきっかけはルースとハッベルというリーグの違う選手の対決を見たいという少年ファンの手紙であったという。第1回オールスターゲームではナショナルリーグの監督として前年限りで現場から離れていたマグローが選ばれた(マグローは翌1934年2月に急逝)。翌年の第2回オールスターゲームでは、ハッベルがルースやゲーリッグなどアメリカンリーグの蒼々たるメンバーから5者連続三振を奪っている。
1936年、ハッベルが26勝6敗、防御率2.31という好成績で自身2度目のMVPを受賞すると、オットも打率.328、33HR、135打点という数字を残し、自身4度目の本塁打王に輝き、ジャイアンツは3年ぶりのリーグ優勝を飾った。ワールドシリーズではジョー・ディマジオがデビューしたてのヤンキースと対戦し、惜しくも4勝2敗で敗れている。
1937年は、前年を16連勝でシーズンを終えていたハッベルは開幕から8連勝をマークし、2年がかりで24連勝という大記録を樹立。この年もジャイアンツは見事にリーグ優勝を飾り、ワールドシリーズでは再びヤンキースと対戦。雪辱を果たしたいジャイアンツだったが、ヤンキースの強力打線を前に1勝4敗で敗れてしまった。そして、この年以降はしばらく優勝から遠のくことになる。
1942年からはテリーに代わり、オットが監督に就任するが、成績は上がらない。そして、1948年途中からライバルのドジャースの監督であったレオ・ドローチャーを新監督として迎えることになった。ドローチャーが後年出す自著のタイトル「ナイスガイズ・フィニッシュ・ラスト(お人好しで野球に勝てるか)」はオットを揶揄した言葉と言われている。ドローチャー新監督の元、ジャイアンツに歓喜が訪れるのは1951年のことである。
1951年、8月11日の段階で首位ドジャースとは13.5ゲーム差があったが、ここからジャイアンツの驚異的な追い上げが始まった。実にシーズン最後の44試合を37勝7敗という勝率で勝ち進んだジャイアンツは、全日程が終わった段階でドジャースと同率である94勝58敗というもので、3試合のプレーオフが行われることになった。
そして、1勝1敗で運命の第3戦を迎えた。7回が終わった段階で1対1と均衡した試合だったが、8回表にドジャースが守備の乱れをついて一挙3点を奪い、勝負は決まったかに思えた。しかし、9回裏にジャイアンツの反撃が始まったのである。最後の攻撃で、ジャイアンツは1点を奪った後、さらに1アウト2塁3塁という大きなチャンスを掴み、ここで打席にこの年に32HRを記録しているボビー・トムソンを迎えることになる。
マウンドには先発のドン・ニューカムから代わったばかりのラルフ・ブランカがいたが、トムソンはその2球目を捕らえてレフトスタンドまで運ぶ、逆転サヨナラ3ランHRを放った。このHRは、「世界中が聞いたHR」とまで言われるほどの伝説のHRとなり、ジャイアンツは1937年以来となるリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズではヤンキースと対戦し、2勝4敗で敗れてしまうが、この年は一人の黒人選手がメジャーデビューを果たしたのである。
その選手の名はウイリー・メイズと言い、この年の新人王にも輝いている。最後の劇的なHRを放ったトムソンは元々、外野を守っていた選手であるが、メイズの加入によりサードへのコンバートされていた。メイズは翌年途中から兵役のためにチームを離れるが、1954年にチームに戻ってくると期待通りの働きを見せ、チームになくてはならない存在になるのである。
1954年には戦線復帰したメイズが打率.345、41HR、110打点をマークして、首位打者を獲得するほどの活躍でチームを優勝に導いた。ワールドシリーズではボブ・レモン、アーリー・ウインを軸とする投手陣に加え、ラリー・ドビーやボビー・アラヤなどの強力打線を持つインディアンズで、シーズン111勝をマークする圧倒的な強さを見せていた。
注目された第1戦は、2対2のまま8回表のインディアンズの攻撃を迎え、打席にはビッグ・ワーツを迎える。このワーツの打球はセンターのメイズの頭を越える大きな打球となったが、メイズは背走しながら追い、見事な背面キャッチを見せた。そして、捕るなりセカンドへ送球し、ランナーも刺してチームのピンチを救った。このプレーは「ザ・キャッチ」と呼ばれ、ワールドシリーズ史上最高のプレーの一つとして数えられている。この試合は延長10回裏にダスティ・ローズのサヨナラHRが飛び出し、初戦を白星で飾るとジャイアンツはその勢いのまま4連勝で世界一を決めた。
しかし、翌年以降はチーム成績も伸びず、観客動員数はドンドン減っていったのである。これに頭を悩ませていたのは同じニューヨークを本拠に構えていたドジャースも同じで、一足早く1958年から西海岸のロサンゼルスへ移転することを決めた。ジャイアンツもマイナーチームのあるミネアポリスへの移転を考えたが、ドジャース側の誘いとサンフランシスコの新球場建設という話に乗り、サンフランシスコへの移転を正式に決めたのである。
サンフランシスコ移転後、最初の2年間はシールズスタジアムを本拠地とした。マイナーリーグの球場だったため、小さな球場ではあったが、ニューヨーク時代よりも多くの観客を集めた。そして、1960年にキャンドルスティックパークが完成。海沿いに位置し、風も強く、気候的にも寒いことから評判は非常に悪かったが、これは球団誘致と球場建設を早急に進めなければいけなかったサンフランシスコ市側の落ち度でもあった。
その中でもメイズは移転も関係なく成績を残し続けた、1955年には51HRで本塁打王を獲得すると、1956年からは4年連続で盗塁王に輝く俊足も見せつけた。キャンドルスティックパークは強風が難点ではあったが、その中でも1962年、1964年、1965年の3度も本塁打王になるなど、充分なパワーを見せつけた。
1959年にはウイリー・マッコビーがメジャーデビューし、デビュー戦となった対フィリーズ戦でロビン・ロバーツから3塁打2本を含む4打数4安打と最高のスタートを切った。わずか52試合の出場ながら、打率.354、13HRが評価されて新人王に輝いている。2年目以降は壁にぶつかった感はあったマッコビーだが、1963年に44HR、102打点で二冠王に輝くなど、メイズとマッコビーはジャイアンツの打撃の2枚看板でもあった。
1962年、ジャイアンツとドジャースは再び同率で首位に並び、3試合のプレーオフが行われるが、ジャイアンツが2勝1敗で移転後初のリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズではヤンキースとの対戦となり、注目が集まった。サンフランシスコの天候にも悩まされたシリーズは3勝3敗のまま第7戦までもつれる。第7戦は0対1のまま最終回のジャイアンツの攻撃を迎える。ここで2アウト2塁3塁と一打サヨナラの最高のチャンスを作るが、ここで打席のマッコビーの打球は、ヤンキースのセカンドを守るボビー・リチャードソンのグラブに収まり、世界一になることは出来なかった。
1960年代のジャイアンツの投手陣を支えたのはホアン・マリシャルである。1960年7月のメジャーデビュー戦となった対フィリーズ戦で、いきなり1安打完封勝利を飾ると、1963年6月の対コルト45S(現在のアストロズ)戦ではノーヒッターを記録している。1963年には25勝をマークし、この年から4年連続で20勝以上を挙げる。通算でも6度も20勝を記録するなど、揺るぎないジャイアンツのエースとして君臨した。
1965年からは4年連続でリーグ2位と優勝にはなかなか手が届かない。東西2地区制になった1969年も西地区2位に終わったジャイアンツが優勝にありついたのは1971年の地区優勝である。しかし、リーグチャンピオンシップシリーズではパイレーツの前に1勝3敗で敗れる。ジャイアンツの1970年代の優勝はこの1回のみで、ここから冬の時代に突入する。
1986年には期待のウイル・クラークがメジャーデビューし、チームの中心打者へと成長する。翌1987年、久々に地区優勝を果たすが、リーグチャンピオンシップシリーズではカージナルスの前に敗れたジャイアンツ。1989年にはケビン・ミッチェルをそれまでのサードからレフトへコンバートすると、47HR、125打点という打棒を発揮し、二冠王とMVPを獲得する活躍ぶりで、地区優勝を果たすとリーグチャンピオンシップシリーズではカブスを退け、リーグ優勝を飾った。
ワールドシリーズでの対戦相手はサンフランシスコ湾の対岸のオークランドに本拠を構えるアスレティックスであった。アスレティックスが移転してきた1968年以降、観客動員を分け合う状況が続いていることも注目を集める原因である。しかし、アスレティックスの2連勝でキャンドルスティックパークでの第3戦を迎えるが、試合開始前にサンフランシスコ大地震が起こり、シリーズは10日間の中断。ちょうど前年のオフにキャンドルスティックパークの補強工事をしていたことが、被害を抑えることが出来たという不幸中の幸いもあった。しかし、再開後のシリーズではあっさりと連敗してしまい、0勝4敗で敗れてしまった。
1993年にはFAでパイレーツからバリー・ボンズを獲得。ボンズの父、ボビー・ボンズもかつてはジャイアンツの選手であり、シーズンで30HR、30盗塁を5度も達成している名選手である。息子も高校卒業時にはジャイアンツからドラフト2位で指名を受けているが、それを蹴って大学進学し、パイレーツからドラフト1位で指名され、実績を積み上げてジャイアンツ入りした。ボンズが加わった1993年、ダスティー・ベイカーを新監督として迎え、地区2位になっている。
2000年には新球場パシフィックベルパークが開場。ボンズは49HR、106打点を記録すれば、ジェフ・ケントも打率.334、33HR、125打点と堅実な打撃でMVPを受賞。前年途中にマーリンズから獲得したリバン・ヘルナンデスも17勝をマークすれば、クローザーのロブ・ネンも41セーブを挙げて、チームは地区優勝を飾った(ディビジョンシリーズではメッツに1勝3敗で敗れる)。
2001年、ボンズがシーズン73HRというメジャー新記録を樹立し、サンフランシスコは大いに沸き上がった。翌2002年はシーズン終盤のドジャースとのワイルドカード争いを制してポストシーズンへの進出を果たす。ディビジョンシリーズではブレーブスと戦い、2連敗後に3連勝すると、カージナルスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは4勝1敗でリーグ優勝を飾った。
ワールドシリーズでは同じワイルドカードのエンゼルスとの対戦となった。3勝2敗で迎えた第6戦では5対0とリードしていながら、終盤のエンゼルスの猛攻で逆転負けすると、第7戦にも敗れてしまい、世界一を逃した。シーズン後にはケントがFAで流出し、ベイカー監督も去った。そして、2003年は新しいチームで戦うことになりそうだ。
ちなみに日本人初のメジャーリーガーとして村上雅則がジャイアンツでプレーしたのは、1964年9月から1965年までの1年とちょっとの期間だけだった。通算成績は54試合の登板で5勝1敗、防御率3.43というものである。先発を経験したのはわずかに1試合だけであり、登板のほとんどはブルペンからのものであるが、日本人メジャーリーガーとして、その足跡は確実にメジャーリーグに残したのである。
(近日、大幅更新予定。。。)
<written by Kenji@webmaster>
ジャイアンツ・各年度別成績一覧
ジャイアンツ・球団名の変換史
- San Francisco GIANTS (1958~現在)
- New York GIANTS (1886~1957)
- New York GOTHAMS (1883~1885)
ジャイアンツ・マイナー組織

